福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
小山祐士
こやま・ゆうし
劇作家
小山祐士


経 歴
生:明治37年(1904年)3月29日、福山笠岡町生まれ
没:昭和57年(1982年)6月10日、享年78歳
明治23年(1890年) 伯父小山音吉(通称小山五千石)洋行し、イギリスよりガルゲイ女史(聖公会宣教師)を伴い、福山に帰る
明治37年(1904年)3月29日 笠岡町にて肥料問屋を営む父福蔵、母キチの二男として生まれる。
姉チカによれば、「おとなしく素直な子で、母や私が琴や三味線を弾いていた影響で音楽を好み、映画を見ても一度で音楽を覚え、帰ってオルガンでその曲を弾いていた」という。そのオルガンはガルゲイ女史に習ったもので、東小学校の生徒の頃、唱歌の時間に先生の替りにオルガンを弾いていたこともある
大正5年(1916年)3月28日 12歳 東尋常小学校卒業
誠之館中学時代に受験雑誌『考え方』の文芸欄に、短い戯曲を投稿して入選、選者、藤森成吉
大正11年(1922年) 18歳 音楽家を志し、上野音楽学校を受験するために度々上京し、声楽を沢崎定之、須藤五郎等に教わる
大正13年(1924年)3月 20歳 誠之館中学を卒業
大正15年(1926年)5月 22歳 父の要請により慶應義塾大学法科に入学。
築地小劇場のチェホフの『三人姉妹』にひどく感動し、音楽とともに劇作に興味を持つ。
昭和2年(1927年)6月 23歳 慶應劇研究会(劇研)の会員であった学生とともに月刊誌『舞台新声』を創刊、翌年6月13号で廃刊、この頃久保田万太郎に師事
昭和3年(1928年)10月 24歳 岸田国士編集の『悲劇喜劇』が、上質紙の豪華な雑誌で第一書房より創刊、翌年7月号で廃刊
昭和4年(1929年)1月 25歳 『舞台新声』を小山祐士、岩崎良三、生江健二が中心で復刊し、サーカスを舞台にした三幕物を書き発表、2号は小山内薫追悼号、4号で廃刊。また、同人雑誌『季節と展望』を高田英之助、北原武夫と中心になり創刊する。
昭和4年(1929年)10月 25歳 井伏鱒二宅に遊びに行った際、何気ない顔付きで岸田国士宅にいきなり連れて行かれ紹介される。日本にもこんな見事な紳士が居るのかと、先生の人柄にすっかりひかれ師事、10日後「邑久夫人の貸間」という一幕物を持参、素質を認められる。
昭和6年(1931年)3月 27歳 慶応義塾大学法科を卒業、銀座の桜田機械会社の営業部に就職
昭和7年(1932年)3月 28歳 処女作「飜えるリボン」三幕をテアトル・アンチーム劇団で上演
昭和8年(1933年)5月 29歳 「十二月」3幕を岸田国士演出で劇団築地座で上演
昭和9年(1934年)10月18日 30歳 福山市西町の実家で中張喜久子と結婚、東中野区上落合に住む。この頃、時々NHKに放送劇を書く。例えば6月にラジオドラマ「大変な見合い」。
昭和10年(1935年)4月 31歳 「瀬戸内海の子供ら」四幕を岸田国士演出で、劇団『築地座』で上演。杉村春子好演。
昭和10年(1935年)9月25日 31歳 長男哲央生れる
昭和10年(1935年)12月 31歳 「瀬戸内海の子供ら」が単行本『劇作叢書』で発刊。また、白水社刊『現代戯曲選集』に収録。
昭和11年(1936年) 32歳 「瀬戸内海の子供ら」第2回芥川賞に決定と新聞に発表されるも、短編小説ではなく戯曲であるため、該当者なしとなる。
昭和12年(1937年)3月 33歳 桜田機械会社を退社
昭和12年(1937年)9月6日 33歳 久保田万太郎、岸田国士、岩田豊雄『文学座』を結成、脚本家として参加する
昭和13年(1938年) 34歳 「魚族」一幕、岸田国士演出で文学座上演
昭和15年(1940年) 36歳 作品集『魚族』を棟方志功の装幀でぐろりあ・そさいて社から出版、「魚族」、「十二月」、「夕凪」、「月夜」が収録される。出版記念会を伊豆の熱川温泉で、井伏鱒二、太宰治、伊馬春部、亀井勝一郎にして貰う。
昭和15年(1940年) 36歳 NHK芸能嘱託として昭和30年(1955年)まで、夏目漱石、森鴎外、谷崎潤一郎、佐藤春夫、志賀直哉、有島武郎、芥川龍之介、大仏次郎、川端康成、高見順、太宰治、織田作之助など多くの純文学の名作をラジオ放送劇として脚色。
昭和15年(1940年)8月6日 36歳 次男剛士生れる
昭和15年(1940年)9月 36歳 『現代戯曲第二巻』河出書房刊に「瀬戸内の子供ら」を収録される
昭和16年(1941年) 37歳 『劇作十四人集』白水社刊に「雨の庭」を収録される
昭和16年(1941年)6月9日 37歳 日本移動演劇連盟を創立し、参加する
昭和16年(1941年) 37歳 ワカモト製薬会社に入社、文化事業部主事となり、演劇と放送の仕事をする
昭和17年(1942年)5月6日 38歳 三男恒平生れる。
この頃ラジオに1時間の音楽劇を書き演出する。古い朝鮮を舞台にした「鳳山タール」や沖縄の組踊りを素材にした「銘刈子物語」等。
昭和19年(1944年) 40歳 東京放送劇団の第1回放送に綴織(つづれおり)のことを書いた「兜(かぶと)」を脚色、その他NHKの単発ドラマを13本書く
昭和19年(1944年) 40歳 林房雄作「南国絵巻」を脚色「美しき南の国」に改題、有楽座で新派公演を行う
昭和20年(1945年)4月 41歳 疎開のため岡山県玉島市永楽町にある妻の実家の持家に一家族で帰郷、その間に5月空襲で東中野上落合の自宅を焼失する
昭和20年(1945年)5月22日 41歳 海洋吹奏隊の北海道慰問旅行に同行し、曲目の選定を依頼される。6月4日函館を離れ、東京を経て、その月玉島に帰る。
昭和20年(1945年)6月29日 41歳 岡山市焼夷弾にて焼失
昭和20年(1945年)8月6日 41歳 広島市に原子爆弾落ちる
昭和20年(1945年)8月8日 41歳 福山市、焼夷弾で街の8割が焼失
昭和20年(1945年)9月25日 41歳 長女ヤエ生れる
昭和21年(1946年) 42歳 戦後、全国的に素人演劇や自立演劇が興り、県庁、マスコミの依頼により岡山・広島・山口・北九州など、昭和23年まで130ヶ所余りを講演して歩き、昭和24年には再び山口県庁より依頼され、山口県を中心に九州などを60日近く歩いた。また、自立演劇コンクールの審査を各地で引き受ける。
昭和23年(1948年)1月 44歳 『近代戯曲選集1』東方書房刊に「瀬戸内海の子供ら」を収録される
昭和23年(1948年)12月 44歳 『劇作選書』第2巻『島』に「十二月」が再録される
昭和24年(1949年)8月 45歳 『劇作選書』第5巻『光っている女たちーー小山祐士戯曲集』世界文化社刊に「雨の庭」、「秋の歌」、「海の庭」、「光っている女たち」収録される
昭和24年(1949年)11月11日 45歳 「蟹の町」と「改作・自由の悲しみ」のナマ原稿を持ち、戦後始めて上京する。
疎開してそれぞれ故里にいた三原市の
村上菊一郎、福塩線筋の井伏鱒二、高田英之助、笠岡市の古川洋三と木山捷平、藤原審爾などに、福山の詩人木下夕爾、「市民座」の藤井得一の文化人たち、また、三原には佐藤光男たちが居り、月に1回位、「今日は笠岡にて桃の花を観る会」「今月は尾道にて月見の会」などとグループを作り集まった。また、岡山には吉田研一、吉塚謹治、山本遺太郎、永瀬清子たち詩人たちや画家たちが居て、心が挫折し、思いが屈して来ると、それぞれ会っては心を寄せ合った。この4年間に先の二つを加えた14編の戯曲を書き、30本近い放送劇を書いた。
昭和25年(1950年)1月1日 46歳 ラジオドラマ「鯛」をBKに書く
昭和25年(1950年)5月15日 46歳 『戯曲・自由学校』河出書房の市民文庫で発刊、原作・岩田豊雄、脚色・小山祐士
昭和26年(1951年)4月 47歳 『日本現代戯曲(1)』新潮文庫に「薔薇一族」を収録する
昭和27年(1952年)10月 48歳 『現代戯曲選』第2巻河出書房刊に「瀬戸内海の子供ら」を収録する。
民間放送---ラジオ東京、ニッポン放送、文化放送など続々開局、数多くのラジオドラマを書く。
昭和28年(1953年)10月 49歳 世田谷区松原4−8−1に自宅を新築し、「二人だけの舞踏会」を書き始める
昭和29年(1954年)3月5日 50歳 師・岸田国士『どん底』の演出中倒れ死去
昭和30年(1955年)11月 51歳 『現代日本戯曲選集』第6巻白水社刊に「瀬戸内海の子供ら」を収録
昭和31年(1956年)2月9日 52歳 「二人だけの舞踏会」四幕を俳優座劇場で上演、昭和31年度第3回新潮社岸田演劇賞を受賞する。
再び、高峰秀子アワー、山本富士子アワーなどで名作を脚色、また志賀直哉の「好人物の夫婦」、幸田文の「黒い裾」をラジオドラマに脚色。
昭和31年(1956年)11月1日 52歳 獅子文六作「大番」の脚色演出をして、1回30分のドラマの3回のラストを終る。杉村春子、木村功、中代達矢等が配役。
昭和32年(1957年)7月5日 53歳 「大番」を脚色演出、新派で東横ホールで上演、配役は花柳喜章と市川紅梅。
昭和32年(1957年) 53歳 「蟹の町」俳優座公演は昭和32年度毎日演劇賞を受賞する
昭和32年(1957年) 53歳 ラジオドラマ「地唄」をBKに依頼され、30分3回の放送劇とする
昭和32年(1957年)12月6日 53歳 ラジオドラマ「第二の終戦」をNHK広島に依頼され、杉村春子らが出演する
昭和33年(1958年)2月8日 54歳 『未来劇場』bT8、未来社刊「秋の歌」を出版
昭和35年(1960年) 56歳 ラジオドラマ「神部ハナと云う女の一生」をNHK芸術劇場に発表。1960年度NHK芸術劇場第1位に推奨される。
昭和36年(1961年)5月13日 57歳 ラジオドラマ「マニラの船歌」をNHK芸術劇場で放送
昭和36年(1961年) 57歳 「黄色い波」三幕、俳優座にて5月14日より毎週日曜劇場として7月30日まで俳優座劇場で上演する
昭和37年(1962年)5月 58歳 「泰山木の木の下で」二幕を民芸が始めて上演、主演ハナ婆さんを北林谷栄が400回を超えて今も演じ続けている。演出の宇野重吉はテアトロン賞を受賞。
昭和37年(1962年)7月 58歳 「一人の女優の歩んだ道」白水社より出版。田村秋子と共著
昭和37年(1962年)11月8日 58歳 ラジオドラマ「サラガイの娘」をMBS毎日放送で放送。市原悦子モノローグ
昭和38年(1963年)3月27日 59歳 「日本の孤島」を文学座が4月16日まで東京第一生命ホールで、4月24日より26日まで大阪毎日ホールで上演
昭和38年(1963年)5月6日 59歳 久保田万太郎、73歳にて死去
昭和38年(1963年)9月17日 59歳 ラジオドラマ「日本の琴」NHKで放送、杉村春子他文学座出演
昭和39年(1964年)6月23日 60歳 ラジオドラマ「紙」をNHKで放送
昭和40年(1965年)5月 61歳 「日本の幽霊」を日本新劇団訪中公演で、北京・上海・広州市で上演
昭和40年(1965年)11月8日〜
               12月28日
61歳 「日本の幽霊」を俳優座劇場その他で
昭和42年(1967年)1月19日〜
 昭和42年(1967年)3月10日
63歳 「瀬戸内の子供ら」を劇団民芸が各地で上演する
昭和42年(1967年)1月31日 63歳 『小山祐士戯曲全集』第1巻、テアトロ社より出版
昭和42年(1967年)6月15日 63歳 『小山祐士戯曲全集』第2巻、テアトロ社より出版
昭和42年(1967年)8月3日 63歳 「星の牧場」庄野英二原作による二幕を脚色、10月25日まで劇団民芸が各地で巡演
昭和42年(1967年)9月〜
 昭和42年(1967年)11月
63歳 劇団俳優座が「日本の幽霊」で各地を巡演する
昭和42年(1967年)10月25日 63歳 『小山祐士戯曲全集』第3巻、テアトロ社より出版
昭和43年(1968年)1月9日 64歳 「薔薇よりも孔雀だ」を2月17日まで京都・神戸・大阪・東京の各劇場で、東野英治郎客演による文学座の公演で行われる
昭和43年(1968年)9月10日 64歳 『小山祐士戯曲全集』第4巻、テアトロ社より出版
昭和44年(1969年)4月1日 65歳 『小山祐士氏の戯曲全集完結及び芸術選奨受賞を祝う会』が出版記念の世話人たちによって赤坂プリンスホテル新館で行われ、190名近い出席者に喜久子夫人ともども祝福される
昭和44年(1969年)4月11日 65歳 多くのすぐれた戯曲を発表し、わが国の演劇界に著しい貢献をしたことにより『芸術選奨文部大臣賞』
昭和44年(1969年)4月27日 65歳 受賞祝賀会を福山市民会館において行う。発起人は福山市長徳永豊、市議会議長門田武雄、商工会議所会頭小林政夫等で盛大に行われる。
昭和45年(1970年)1月24日 66歳 『女優の一生』白水社より出版、杉村春子と共著
昭和45年(1970年)2月28日 66歳 「冬の花」文学座・俳優座提携公演を、5月8日まで各地で公演、演出木村光一
昭和46年(1971年)1月9日〜
 昭和46年(1971年)4月30日
67歳 「星の牧場」庄野英二原作を音楽劇に改め各地を巡演する
昭和46年(1971年)3月25日 67歳 『小山祐士戯曲全集』第5巻、テアトロ社より出版
昭和50年(1975年)8月6日 71歳 次男剛士が自動車事故のため死亡、享年35歳。精神的に打撃を受ける
昭和50年(1975年)11月8日 71歳 『紫綬褒章』
昭和52年(1977年)11月13日 73歳 「金木犀はまだ咲かない」を文学座が創立40周年記念公演とし、12月24日まで多くの都市で公演。身体が悪いため演出はすべて木村光一に一任
昭和53年(1978年) 74歳 病気のため入院
昭和54年(1979年)6月29日 75歳 「十二月」三幕を劇団仲間が中村俊一演出で7月2日まで東京・平河町砂防会館ホールにて上演
昭和57年(1982年)1月 78歳 「十二月」を劇団民芸が各地で上演する
昭和57年(1982年)6月10日 78歳 急性心不全にて死去、享年78歳
昭和59年(1984年)10月10日 「二人だけの舞踏会」を俳優座が25日まで再演
昭和63年(1988年)5月19日 文芸家協会による富士霊園「文学者の墓」に、代表作品を「瀬戸内の子供ら」とする小山祐士の碑を7回忌にあたり刻む。
その際喜久子夫人は、本年度の埋葬者遺族を代表して挨拶をした。
『永い年月戯曲を書き続け、きびしく、きびしく生き続けてきた主人に、ここに名前と作品を後世に残していただけることを伝えることができましたら、この道一筋に歩んできた主人は、どんなにか満ち足りた幸福感にひたることでしょう。・・・・・』
 (出典1)


生い立ちと学業、業績
劇作家。福山市笠岡町にて小山福蔵の次男として生まれる。
大正13年(1916年))福山中学校(誠之館)卒業。
作曲家を志して上京。
大正15年、慶応義塾大学に入学するが、築地小劇場のチエホフ『三人姉妹』を観て感動し演劇に興味を持ち、慶応劇研究会(劇研)に入会。久保田万太郎、小山内薫の知遇を得る。
昭和4年(1929年)、先輩の
井伏鱒二氏に紹介された岸田国士に師事。

昭和6年(1931年)、慶応義塾大学を卒業。
翌昭和7年(1932年)、処女作「飜へるリボン」三幕がテアトル・アンチーム劇団で上演され、本格的に劇作に入る。
昭和8年〈1933年〉「十二月」、昭和10年〈1935年〉「瀬戸内海の子供ら」が岸田国士演出により『築地座』で上演され好評を博す。
特に後者は第2回芥川賞にいったんは決定したが、戯曲であるため取り消しとなった。
昭和12年(1937年)久保田万太郎、岸田国士、岩田豊雄(獅子文六)が『文学座』を結成した際、脚本家として参加。
翌昭和13年(1938年)「魚族」が岸田国士演出により上演された。
以後、第二次世界大戦の戦中から戦後にかけて多くのシナリオやラジオドラマを執筆した。

戦時中は妻の実家がある岡山県玉島市(現・倉敷市)に疎開していたが、昭和28年(1953年)東京都世田谷区に自宅を新築し、自ら戦後の第一作という「二人だけの舞踏会」の執筆に入り、同作は昭和31年(1956年)俳優座劇場で上演、第3回新潮社岸田演劇賞を受賞。
翌昭和32年(1957年)「蟹の町」俳優座公演は毎日演劇賞を受賞。
さらに昭和35年(1960年)ラジオドラマ「神部ハナと云う女」は、同年度NHK芸術劇場放送分の第1位に推奨された。
昭和37年(1962年)発表の「泰山木の木の下で」は、舞台は尾道という設定だが、戦後福山市に実在した、振袖姿に三味線を抱え町を徘徊した狂女がモデルともいわれ、瀬戸内の人情風俗を描いた評判の作品。
劇団民芸が初めて上演し、演出の宇野重吉はテアトロン賞を受賞、主演の北林谷栄は平成14年(2002年)公演で448回を数え、今も演じつづけている。

昭和44年(1969年)多くの優れた戯曲を発表し、わが国の演劇界に著しい貢献をしたことにより、芸術選奨文部大臣賞を受賞。
さらに昭和50年(1975年)には紫綬褒章を授章したが、この頃から体調がすぐれず、昭和52年(1977年)の文学座創立40周年記念作品として1年がかりで執筆した「金木犀はまだ咲かない」が最後の作品となった。
翌年入院し、昭和57年(1982年)6月10日、急性心不全のため逝去。享年78歳。

他界後、昭和63年(1988年)七回忌にあたり、文芸家協会による富士霊園『文学者の墓』に、代表作を「瀬戸内海の子供ら」とする小山祐士の碑が刻まれた。
終生、瀬戸内海を舞台とした作品を書き続けた『小山祐士戯曲全集』全5巻は昭和42年(1967年)から昭和46年(1971年)まで、テアトロ社より出版されている。
   荒木聢志(昭和30年卒)


誠之館所蔵品
管理 氏 名 名  称 制作/発行 日 付
03924 小山祐士 著 『小山祐士戯曲全集(第一、ニ、四巻)』 テアトロ社 昭和42年〜
昭和43年
03157 小山祐士記念事業実行委員会 編 『瀬戸内の劇詩人 小山祐士』 福山文化連盟 平成4年
05535 ふくやま文学館 編 『福山の文学第5集 ふくやま文学館所蔵資料紹介−井伏鱒二福原麟太郎・小山祐士・木下夕爾村上菊一郎小伝−』 ふくやま文学館 平成16年


探しています
氏 名 名  称 制作/発行 日 付 コメント
小山祐士 著 『瀬戸内の子供ら』 白水社 昭和10年
小山祐士 著 『魚族』 昭和15年
小山祐士 著 『戯曲集 光ってる女たち』 世界文化社 昭和24年
小山祐士 著 『戯曲 自由学校』 河出書房(市民文庫) 昭和26年 獅子文六原作
小山祐士 著 『一人の女優の歩んだ道』 白水社 昭和37年 田村秋子共著
小山祐士 著 『女優の一生』 白水社 昭和45年 杉村春子共著


出典1:『瀬戸内の劇詩人 小山祐士』、福山文化連盟編刊、1992年9月29日
出典2:『小山祐士戯曲全集』、「私の履歴書」、テアトロ社編刊、昭和42年〜46年
2005年5月24日更新:経歴・本文・出典●2005年6月20日更新:所蔵品●2005年12月12日更新:所蔵品●2006年4月6日更新:タイトル・本文・所蔵品・出典●2008年1月16日更新:本文●2009年10月28日更新:経歴・本文・誠之館所蔵品●2009年11月19日更新:誠之館所蔵品●2009年12月11日更新:経歴・誠之館所蔵品●2010年9月1日更新:探しています●