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医家、頼山陽の後援者 | |||||||||
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経 歴 | |||||||||||||||||||||
生:天明4年(1784年)11月20日、京都生まれ | |||||||||||||||||||||
没:嘉永2年(1849年)2月10日、享年67歳、京都柴野大徳寺孤蓬庵に葬る | |||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
江戸後期、京都の人。医家。 名は龍、橘龍、字は元瑞、号は檉園(せいえん)・蘭斎・字は矼軒(こうけん)・秋巖仙史(しゅうがん・せんし)・拙翁・用拙居・用拙居主人・松芝老人・五竹茶寮。 小石元俊の子。 母は小関柔(おぜき・やす)、元瑞を生んだ翌年に没している。 幼時大坂に住み、篠崎三島について漢学を修める。 16歳で父とともに江戸に出て、杉田玄白、大槻玄沢、宇田川玄随などについて医業を学んだ。 新宮涼庭と並んで「蘭法二大方」と称されたが、元瑞の医学は、蘭方の理論に漢方の治療法も併用する漢蘭折衷であった。 処方の解説書である自著『究理堂備用方符』に序し、「吾門は内景を説き病理を論ずるには、専らオランダの説を主とし、薬治には漢方と蘭剤を雑取する」といい、「みな漢蘭古方に根拠し折衷して成る」という。 医業の傍ら、皆川淇園について漢学を学んだ。 その後帰京し父の究理堂をつぎ、さらに発展させ、生涯の入門者は千人に及んだという。 元瑞は究理堂で二・八の朝『西説内科撰要』を講義した。 併せて永く医家として京都・釜座夷川北に住んだ。 50歳で業を子・仲蔵に譲り、拙翁と号して用拙居で著述に励んだが、62歳には柳川候病気のため筑後へ招かれ、治療に功を奏している。 広瀬淡窓・篠崎小竹・田能村竹田・頼山陽などの文人墨客や、宇田川榕庵・箕作阮甫・坪井信道・新宮涼庭などの医家との交流が深かった。 なかでも頼山陽にとっては、同時に強力な後援者でもあった。 また小石家の下女の梨影をいったん養女とし、頼山陽に嫁がせた。 妻には頼山陽の義妹を娶っている。 田能村竹田は「小石は好人物、頗る気概あり、京都の柔軟畏縮(じゅうなん・いしゅく)の習気に染まず」という。 著作には、『檉園随筆』、『東西医説析義』、『梅毒秘説』、『薬性摘要』、『蘭訳分量考』、『西説痘瘡記聞(とうそうきぶん)』、『究理堂備用方符』、『窮理堂誡論』、『処治録』のほか、医書、詩文稿、随筆、茶・香に関するものなど多数がある。 『処治録(15冊)』は患者の容態と投薬を丹念に記録した診療カルテ集で、文政12年(1829年)から弘化5年(1848年)にいたる20年間の庶民資料として価値が高い。 肖像は小田海僊が描いている。 四男八女があり、庶子の小関亮造は究理堂の都講を勤め、斎藤方策の長女と結婚し一男を挙げた。斎藤家をついだ永策である。 67歳で没し、京都柴野大徳寺孤蓬庵に葬られた。法号は三秀軒檉翁宗竜居士。 |
誠之館所蔵品 | ||||
管理№ | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
05319 | 小石元瑞 書 | 書「薬氣侵茶」 | - | - |
出典1:『国史大辞典5』、257頁、「小石元瑞」、国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館刊、昭和20年2月1日 |
2009年1月27日追加●2012年2月1日更新:写真・経歴・本文・出典●2015年9月3日更新:本文・誠之館所蔵品(リンク)・レイアウト● |