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海軍大将、勲一等瑞宝章 | |||||||||
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経 歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:明治10年(1877年)10月1日、広島市台屋町3番地(現南区京橋町)生まれ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:昭和37年(1962年)7月4日、東京世田谷区の自宅において逝去、享年84歳、東京都府中市多磨墓地に葬る | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
小林氏は、明治10年(1877年)10月1日、広島市台屋町3番邸(現南区京橋町)で、早川亀太郎の三男として生まれ、のち、母方の旧広島藩士族小林時之助の養子となった。 広島市出身の加藤友三郎元帥・内閣総理大臣の甥。 弟は早川幹夫中将、義弟(妹の夫)は新見政一中将。 「躋造」をもじって「臍造(へそぞう)」と愛称された。 養父は広島県庁土木技師であり、当時尾道町久保273番邸に住んでいたため、躋造は御調郡尾道高等小学校修了後、明治23年(1890)年9月1日、尋常中学福山誠之館へ入学した。 若井遜・川又、二教師の解任を阻止するため、各学年生徒が集団で退館願を提出するという事件がおこったのは、彼が3年生在学中のことである。 この騒動は、生徒の願書を却下して一応納まったが、小林はこれを機に退学している。 退学を命ぜられたのか、退館願を出した自分の言動に責任をとってみずから退いたのかは不明であるが、恐らく後者であったと思われる。 学籍簿には「明治廿六年(1893年)三月廿九日 家事都合」と記載されている。 上京して海軍予備校「海城中学校」に入り、明治29年(1896年)2月5日、海軍兵学校に第26期生として入学した。 明治31年(1898年)12月、優等で卒業。 明治33年(1900)年1月、海軍少尉に任官した。 以後、海上勤務、日露戦争従軍、駐英駐米武官、第一次大戦従軍、海軍次官を経て、昭和6年(1931年)12月1日海軍軍人の最高位・連合艦隊司令長官に任命され、在任中海軍大将に昇進した<昭和8年(1933年)3月>。 この間、ジュネーブ海軍軍縮会議の全権随員として派遣され、会議は決裂したが、その政治的手腕は高く評価された。 また昭和4・5年(1929・30年)のロンドン海軍軍縮会議では、軍政系統の条約派として、条約の締結に努力している。 その後、二・二六事件後の昭和11年(1936年)3月30日、予備役に編入されたが、同昭和11年(1936年)9月には、第17代台湾総督に任ぜられ、昭和15年(1940年)11月まで、4年間その職にあった。 氏は、艦隊派に対して、「支那事変の収拾、日米戦の回避」という考えをもつ、いわゆる条約派の軍人であり、太平洋戦争突入後は、早期終戦の意見をもちつづけ、その関係から近衛文麿総理の知己を得、昭和18年(1943年)から昭和19年(1944年)頃には、東条首相退陣後の総理候補に擬せられていたが、諸種の事情から実現しなかった。 一方昭和15年(1940年)、近衛首相によって創り出された大政翼賛会は、次第に国策協力・国民統制の度合いを強めていたが、昭和18年(1943年)6月、前警視総監丸山鶴吉<明治35年(1902年)3月卒業>を事務総長に迎えた。 丸山は、かねてから親交のあった小林を説得して、翼賛会中央協力会議議長就任を受諾させた。 この2人は、いずれも翼賛会の性格には疑問をいだいていたということであるが、太平洋戦争の終末期において、本校出身の先輩後輩の2人が、手を携えて難局の収拾にあたったという事実は、後人をして深い因縁を感じさせるものがある。 つづいて氏は、昭和19年(1944年)8月、翼賛会総裁、同昭和19年(1944年)12月、小磯内閣の無任所大臣となって入閣したが、昭和20年(1945年)3月、4カ月で辞任した。 昭和37年(1962年)7月4日、東京世田谷区の自宅において逝去。享年84歳であった。 (出典1) |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
02153 | 伊藤隆・野村実 編 | 『海軍大将小林躋造覚書』 | 山川出版社 | 1981年 |
出典1:『誠之館百三十年史(上巻)』、596頁、福山誠之館同窓会編刊、昭和63年12月1日 出典2:『海軍大将小林躋造覚書』、伊藤隆・野村実編、山川出版社刊、1981年1月20日 |
2004年10月21日更新●2005年2月16日更新:見出し・出典●2005年5月12日更新:本文●2006年6月7日更新:タイトル●2006年12月7日更新:レイアウト●2008年1月30日更新:経歴・本文●2008年10月2日更新:経歴・本文●2008年10月3日更新:経歴● |