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福山誠之館同窓会会長(第7代)、 福山商工会議所会頭(第4代)、日東製網株式会社社長 |
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経 歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:大正3年(1914年)2月16日、広島県福山市西町生まれ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:平成12年(2000年)9月15日、享年87歳、福山市北吉津町観音寺に葬る | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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小林政夫氏 石井淳 (昭和10年卒) |
小林さんは生まれつき聡明で誠実、清廉潔白で折り目正しく古武士的風格があり、軽薄な服装や言動を嫌い、陰徳を崇め、正義感に強く、誰よりも日本を、亦郷土を、そして母校誠之館を愛した人でした。 こうした性格は誠之館百三十周年記念誌『懐古』に、誠之館中学在学当時を自叙されていることが裏付けています。 そして、豊富で高い見識と卓越した実行力を以って事に当たり、郷土の発展と隆昌に、また誠之館の再興に寄与されたことは衆目の一致するところであります。 小林さんの活躍は、肩書きが124も付いていたことからも分かる通り、政治、経済、防衛、社会奉仕など、幅広い分野に亙っています。 これは、誠之館から東京商科大学(現一橋大学)卒後、弱冠30才で一部上場の日東製網株式会社社長就任、36才最年少で全国区参議院議員当選、6年の任期を全うされた年に、福山ライオンズクラブ創設会員、その10年後に同国際協会地区ガバナー、次いで福山商工会議所会頭、また誠之館同窓会に関しては昭和41年(1966年)に副会長、昭和63年(1988年)に会長就任といった経歴によるところが大きいと存じます。 そして、平成元年(1989年)4月には勲二等瑞宝章を授与されています。 このような方の人物誌を限られた窓を通して見た小林像しか知らない私に依頼されても、荷が重過ぎて困惑の極みですが、ある種の責任を感じて敢えて拙文をも省みず筆を執っています。 嘗て、小林さんが日本経済新聞の交遊抄欄に私のことを『午前様医師』と題して昭和58年に寄稿され、一朝にして親戚友人間に私の悪名を轟かせることになりましたが、ホームドクターであったことには間違いありません。 しかし、小林さんは元来健康な方で、晩年を除いて病気らしい疾病に罹られたことを知りません。 小林さんの日常生活も几帳面で、朝は6時に起床、6時半のラジオ体操第一、第二を済ませて仏壇に向かい、観音経と般若心経をあげてから朝食を摂り、出勤後はきみ子夫人に煎じて魔法瓶に詰めて貰われたゲンノショウコを愛飲されていた。 これが健康法でもあったようです。 小林さんは、先の交遊抄の中で広島・山口・島根3県の地区ガバナーに昭和46年(1971年)に就任したように書いておられますが、これは勘違いで昭和41年(1966年)のことでした。私は地区幹事に委嘱され、殆どの公式訪問に随行しました。運転手付きの自家用車を常用され、萩クラブへ行った時には帰りは深更に及びました。 往路では車内で会社の必要書類に目を通されるのが常でしたが、眼によくないので再三注意したにも拘らず、この習慣は晩年まで変りませんでした。 ライオンズでは、『身を修め家を整え事業を成功に導いてこそ真の奉仕活動が出来る』旨を、またライオンズ帽の廃止と祝祭日の国旗掲揚を強調されました。 私には『門前雀羅(もんぜん・じゃくら)を張る』ことのないように言われましたが、このことは、即小林さん自身『生業こそが大事である』ことを痛感されていたからだと思います。 因みに会社のモットーは『創意・工夫・努力』でした。 小林さんは教育にも関心が深く、広島大学水畜産学部が福山から撤収することがきまると、早速4年制大学の設立に奔走され、昭和50年(1975年)に実現しましたが、その福山大学は平成17年(2005年)には30周年を迎え、立派な大学として成長し続けています。 ところで、それ以上に情熱を傾注されたのは母校誠之館であったと思います。 福山地区5校に昭和51年(1976年)度から総合選抜制度が導入され、標的とされた誠之館が最も大きな打撃を受けることになりました。 自由社会における平等は、個を生かすためのものでなければならない。 能力に応じた教育、学校選択の自由は、どうしても守らなければならないことでありました。 そこで考えられたことの一つは、総選制の見直しであり、もう一つは、私学誠之館の設立でした。 小林さんを中心に、数人で内々協議を重ね、昭和56年(1981年)1月からいよいよ活動を表立って開始することになり、先ず、『福山市の教育を良くする会(三谷美郎会長)』を同昭和56年6月に結成しました。 会員は23名でしたが、各界の代表を集めて座談会を開き、議会への請願、県への陳情など、悪平等を齎(もたら)す総選制見直しに八方手を尽くされました。 そのお陰で、平成10年(1998年)から宿願の総選制廃止が実現しました。 このことは教育正常化のためには是非とも必要なことで、県教育史上特筆すべきことと存じます。 また、後者については、誠之館の名称を県が認めてくれないので、弘道館高校に替え、26名の有志で昭和57年(1982年)2月に設立期成会(代表小林政夫)を結成し、一人当たり取り敢えず百万円を拠出しました。 福山グランドホテル客室(和室)を借りて定期的に会合し、時には激論、ために口角泡を飛ばすこともありましたが、作業は活気に充ちて進捗し、昭和59年(1984年)4月開校を目指し、昭和57年(1982年)5月には設置計画書を県知事宛提出する運びとなりました。 学校長も森田雅一氏に内定し、場所は神辺町西中条の保安林(約14万坪)で、定員は1学年120人の3クラス編成とし、全寮制の男子校として発足するが、将来は中学を併設し、中・高一貫教育を想定していた。 予算は約20億円を見積もっていた。 しかし、県の助成金13億円が大きく削減され、募金計画も蹉跌して、昭和57年(1982年)11月には中止の止むなきに至ったことは、誠に残念なことでありました。 なお、昭和30年(1955年)11月に建てた旧同窓会館兼図書館、即ち誠之会館の代替として、本館と講堂間の特別棟の視聴覚教室の下の部分は同窓会として使用してよいことに県教委とは口約束は出来ていましたが、有名無実で生徒急増のため次第に圧迫され、百三十周年史編纂《昭和57年(1982年)12月発足》のための作業場に窮した同窓会はプレハブの建設を県に要請するとともに、通信制課程の分離独立を要望しました。この発案も小林さんであったと記憶します。 プレハブは昭和60年(1985年)8月に、また通信制課程の専用棟は平成元年(1989年)3月に竣工しています。 『誠之館百三十年史』は誠之館の正史として後世に残る大事業でしたが、この副産物としての通信課程の分離が誠之館再興に大きく寄与したと思います。 尚また、同窓会館の再建は従前より陳情を続けていましたが、総合学科に伴う南館増築を期に県に対し働きかけを一層強めていました。 これより先、平成7年(1995年)10月には蓮池畔に約100坪の同窓会館の用地を獲得し、法人化を意図しましたが、至難なことが分かり、中止の止むなきに至っています。 同窓会館再建に関しては、平成10年(1998年)1月に県知事および教育長に小林さん始め3名で陳情したのが最後で、同窓会館が実現したのは岩崎会長の代になってからのことでした。 同窓会館の再建はわれわれ同窓生の宿願でしたが、岩崎会長はじめ役員の方々の不断の熱意と努力により予期した以上の立派な会館が完成し、いまは亡き小林さんと共に感謝と敬意の念を捧げたいと存じます。 小林さんにも試行錯誤はあり、今にして思えば随分無駄なエネルギーを消耗したとの感無きにしも非ずですが、それだけ苦渋に満ちた時代に悪戦苦闘を重ねられた姿を、その中に見ることが出来ると思います。 小林さんの労もねぎらいたい気持ちで一杯です。 平成15年8月17日 |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
03914 | 小林政夫 著 | 『東南アジア紀行』 | − | 昭和29年 |
02096 | 小林政夫 著 | 『一人の参議院議員の歩み』 | − | 昭和38年 |
02102 | 小林政夫 著 | 『東ヨーロッパ旅行』 | − | 昭和49年 |
02098 | 小林政夫 著 | 『日に新たに』 | 日東製網(株) | 昭和49年 |
02099 | 小林政夫 著 | 『日に新たに(第二部)』 | 日東製網(株) | 昭和59年 |
02100 | 小林政夫 著 | 『日に新たに(第三部)』 | 日東製網(株) | 平成2年 |
02101 | 小林政夫 著 | 『日に新たに(第四部)』 | 日東製網(株) | 平成9年 |
02107 | 小林政夫 著 | 『中国の印象』 | 共同企画製作 | − |
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02060 | 小林政夫 著 福山誠之館同窓会 編 |
「中学校時代の思い出」 『懐古−誠之館時代の思い出−』、135頁 | 福山誠之館同窓会 | 昭和58年 |
03282 | 岩崎博 著 福山誠之館同窓会 編 |
「『小林政夫前会長を送る』弔辞」 『誠之館同窓会会報(第8号)』 |
福山誠之館同窓会 | 平成13年 |
関係資料1:『政治産業文化備後綜合名鑑』、野上五郎・式見静夫編、備後文化出版社刊、昭和34年9月 |
2005年4月11日更新:本文●2006年6月23日更新:タイトル・所蔵品●2007年8月22日更新:関係資料●2007年11月29日更新:経歴・本文●2007年12月3日更新:タイトル●2008年6月5日更新:経歴●2009年4月28日更新:経歴●2011年7月11日更新:写真・経歴●2011年8月17日更新:誠之館所蔵品・関係資料● |