福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
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交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
河相全次郎
かわい・ぜんじろう
八重洲ブックセンター社長、鹿島建設副社長
河相全次郎


経 歴
生:昭和4年(1929年)、福山市生まれ
没:平成22年(2010年)7月10日、享年81歳
昭和22年(1947年) 18歳 広島県立福山誠之館中学校卒業
昭和28年(1953年) 24歳 慶應義塾大学文学部社会学科卒業
昭和28年(1953年) 24歳 鹿島建設株式会社入社
昭和39年(1964年) 35歳 鹿島出版会へ出向
昭和52年(1977年) 48歳 株式会社八重洲ブックセンター社長
昭和55年(1980年) 51歳 株式会社鹿島出版会社長
昭和60年(1985年) 56歳 株式会社八重洲ブックセンター会長
昭和61年(1986年) 57歳 株式会社鹿島出版会副会長
昭和62年(1987年) 58歳 株式会社鹿島建設常務
平成2年(1990年) 61歳 株式会社鹿島専務
平成4年(1992年) 63歳 社団法人日本書籍出版協会相談役
平成5年(1993年) 64歳 鹿島建設株式会社代表取締役副社長
鹿島建設株式会社常任顧問
株式会社鹿島ツーリスト取締役
株式会社イリヤ取締役
株式会社プラス・アルファー取締役
財団法人日本出版クラブ評議員
福山誠之館東京同窓会顧問
東京福山会副会長
広島県人会理事


「真珠湾はなぜ騙し討ちなのか」  昭和22年卒 河相 全次郎   (出典1)
私が誠之館中学に学んだのは丁度大東亜戦争酣(たけなわ)の頃である。
そんな時代だったせいか、私は新聞や雑誌に載る勇ましい戦争の記事を毎日貪るように読んでは、後世に残すべきものと判断したものは片っ端からスクラップ・ブックに貼りつけ、とうとうこれが百冊近くになったところで、昭和20年8月8日の空襲で全部焼いてしまった。
このことは今もって残念で仕方ないが、思えば私が現在まで続く戦史の研究を始めたのはこの頃からで、爾来50年以上も続いている。

ところで、戦後50年ともなると大東亜戦争についての記憶も次第に曖昧なものとなリ、それに日本人独特の贖罪感も加わって、歴史そのものが歪曲されたリ、誤り伝えられたりしていることは国の将来にとって誠に憂慮すべきことと云う他ない。

例えば大東亜戦争が何時何処で始まったのかということでさえ殆どの人がそれは真珠湾攻撃で始まったのだと思い込んでいる。
これは明らかに間違いで、実は真珠湾攻撃の1時間20分前(ハワイ時聞午前6時35分)に第25軍は既にマレー半島の敵前上陸に成功し、同地を守備する英軍と激戦を交えていたのである。
そしてこの困難な上陸作戦を敢行したのが広島の第5師団でその中に歩兵第41連隊、つまり福山の連隊も加わっていたのであるから、大東亜戦争はハワイを奇襲した第1航空艦隊ではなく、わが郷土部隊によって始められたのだと云っても過言ではない。

それでもまだハワイだと信じている人々も、開戦を告げる「帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」というあの歴史的大本営発表をよく読めば、東太平洋のハワイではない事がわかる筈である。

ところでこのマレー上陸作戦にあたって日本政府は英国政府に対して、最後通告など事前通告らしきものは一切行っていないが、未だかつて英国からは騙し討ちだなどという非難の声は一度たりとも聞いたことはない。

では真珠湾はなぜ騙し討ちなのか。

それはアメリカとの間ではいわゆる日米交渉が行われていたからで、若し英国との間でも同様な交渉が行われていたならば、マレー上陸作戦も騙し討ちの非難を免れえなかったであろう。

そこでハッキリしておかねばならない事はアメリカは日本が事前通告なしに真珠湾を攻撃したとして非難しているのではなく、外交交渉が行われていたにも拘わらず、背後から抜き足差し足で忍び寄り不意打ちを喰らわせた事を怒っているので、彼等に云わせれば日米交渉は真珠湾攻撃を成功させる為に日本が仕組んだ策略であったというのである。
これについては交渉末期において、連合艦隊指令部がこれを奇襲成功のためのトリックに使うべく意図していた事が明らかである以上弁解の余地はないが、事態をさらに悪くしたのは、ワシントンの日本大使館における信じられないような不手際と怠慢とで、アメリカ政府への交渉打ち切りを通告する対米覚書の手交が予定よリ55分も遅れてしまったことである。

その内容は世上いわれている様な最後通告ではなく「・・・・帝国政府は茲に合衆国政府の態度に鑑み今後交渉を継続するも妥結に達するを得ずと認むる外なき旨を合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり」(対米覚書第14部の最後の部分)というもので、むしろ11月26日に日本側に掲示されたハル・ノートこそ対日最後通告と呼ばれるに相応しいものであった。
然し内容はどうであれ、この手交遅延はアメリカ側に “スニーキー・アタック” や “リメンバー・パールハーバー” など今も残る対日非難のスローガンを掲げさせるのに絶好の口実を与えてしまった。
そこでこの実態を重くみた外務省は野村大使の帰国をまって直ちに査問委員会を開くこととしたが、海軍大将である野村大使を、外務省が査問委員会にかける事を海軍側が強く反対したため、結局査問委員会は開かれず不問に付された。

若しこの時査問委員会が開かれ、手交遅延の経緯と責任とが明らかにされていたならば、その責任はワシントンの日本大使館に限定され、国への汚名は回避されたであろうと思うとその唯一の機会をこの日本的曖昧さによって失なったことが残念でならない。

然しいずれにしても、大東亜戦争が真珠湾で始まったものでない以上、騙し打ちの汚名は真珠湾攻撃に対してのみに限定されるべきであり、又日米交渉がなかったならば、例え事前通告なしにあのような奇襲攻撃を行ったとしても、マレー上陸作戦における英国の例からもわかるように、アメリカからスニーキー・アタックなどと口汚く罵られる筋合いは全くなく、むしろ油断をしてあのような大敗を喫したアメリカこそ世界の笑われ者になっていたであろう。

いつの時代にも歴史は勝者にとって甘美であり敗者にとっては過酷である。


誠之館所蔵品
管理 氏 名 名  称 制作/発行 日 付
02083 河相全次郎 著 『河相全次郎写真集 サバンナ 雄大な自然の大地』 望I楼 平成7年
02084 河相全次郎 著 『嘘か真か幻か』 望I楼 平成8年
03211 河相全次郎 著 『無』 平成15年
02145 宮崎利厚 編 『続 日本一のマンモス書店』 ハマザキパブリケーションズ 昭和58年
02146 宮崎利厚 編 『日本一のマンモス書店』 ハマザキパブリケーションズ 昭和63年
04675 NTTデータ通信 編 『SCAW(スコー)≪Vol.4≫』 NTTデータ通信 平成4年
03212 日本テレビ 編 ビデオ「巨大書店の誕生 八重洲ブックセンターが開店した日」 日本テレビ 平成15年
04407 三戸岡道夫 編 『二宮金次郎と13人の世界人(221頁)』 栄光出版社 平成16年


出典1:『誠之館同窓会報(第3号)』、13頁、福山誠之館同窓会編刊、1996年5月19日
2005年1月26日更新:写真●2005年1月31日更新:本文●2005年2月9日更新:著書・関連本を追加●2005年6月1日更新:本文・出典●2006年5月23日更新:タイトル・所蔵品・連絡先(削除)●2007年1月9日更新:経歴・所蔵品●2008年2月4日更新:経歴●2009年6月8日更新:経歴・誠之館所蔵品●2010年7月27日更新:経歴●