福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
鎌田呉陽
かまた・ごよう
日本画家


経 歴
生:享和2年(1802年)、備後国鞆道越町(現広島県福山市鞆町)生まれ
没:安政5年(1858年)9月24日、享年57歳、尾道御所町の法王寺に葬り、のち福山木之庄に改葬
文化12年(1815年) 14歳 四条派の画家・松村呉春の門に入る
つづいて呉春の弟・松村景文について学ぶ
京都において公家お抱え絵師
弘化4年(1847年)ごろ 45歳ごろ 帰福後、地元で活躍


生い立ちと学業、業績
享和2年(1802年)、備後国鞆(現広島県福山市鞆町)の富裕な「網干屋(あぼしや)」に生まれる。
本名は清造、通称を弥三郎といい、諱は清道、号は晋・士允・嘯雲。

生家の網干屋は、商船(北前船)などと商取引をする問屋(船宿)である。
屋敷地は鞆町内の道越町にあり、表間口が通りに面し、裏は鞆港につづく土倉群を配した典型的な商家づくりになっていた。

幼少より画を好み、長じて京都に遊学し、四条派の画家・松村呉春の門に入り、さらにその弟・松村景文に学び、大いに画技を高め、さらに彫刻も巧みであった。
四条派は江戸後期の京都画壇において、松村呉春が文人画から丸山応挙に近づけた写生主義の画派で、南画の閑逸な気韻と円山派の清明な写生を調和した独自の様式を創造していた。

その後京都において公家お抱え絵師をつとめた。
また紫野大徳寺の僧に好まれて多くの作品を遺しているという。

呉陽の作品は、応挙の画風に似たものが多く、温和で身近に親しみ深い自然と庶民的感情をこめた作風で、画面には自然のみずみずしい印象が息づいているという。
四条派らしい洒脱味のある写実的な山水画や、人物図をはじめ、景文の画法をうけた花鳥画などの作品が多く残っている。

網干屋を継いだ兄夫婦が弘化2年(1845年)になくなり、その翌年には甥が死去したため、網干屋を整理するはめに陥ったらしい。
そのための帰福後は、福山実相寺での画会で一日1000画、韜光寺で1500画をかいたという逸話が伝わっている。
この時には右手の各指の間に高低をもたせて挟んだ筆を使い分け、皆を驚かせたらしい。

尾道御所町の法王寺に葬られたが、のち福山木之庄に改葬された。
今その家系は絶えている。
   (出典1〜4)


誠之館所蔵品
管理 氏  名 名  称 制作/発行 日 付
05137 鎌田呉陽 画 日本画「布袋亀図」
04126 福山市鞆の浦歴史民俗資料館 編刊 『特別展 港町・鞆の津と画人展−鎌田呉陽・緒方亮平−』 福山市鞆の浦歴史民俗資料館 平成5年


出典1:『特別展 福山の日本画展』、71頁、福山市立福山城博物館編刊、平成5年4月3日
出典2:『福山藩の日本画−歴史がおりなす美の世界』、72頁、福山城博物館編刊、2004年10月10日
出典3:『特別展 港町・鞆の津と画人展−鎌田呉陽・緒方亮平−』、福山市鞆の浦歴史民俗資料館編刊、1993年10月2日
出典4:『今昔物語 福山の歴史(上巻)』、249頁、村上正名著、歴史図書社刊、昭和52年11月20日
関連情報1:『画集 鎌田呉陽』、阪田泰正著、1979年
2008年10月28日追加●2008年11月18日更新:本文・誠之館所蔵品・出典●