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江戸時代の歌人 | |||||||||
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経 歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
生:明和5年(1768年)4月10日、鳥取生まれ | |||||||||||||||||||||||||||||||||
没:天保14年(1843年)3月27日、京都で没、享年75歳、京都東寺町聞名寺に葬る | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
江戸時代後期の歌人。初名は純徳・景徳、のち景樹。通称は銀之助・真十郎。式部・長門介。号は桂園(けいえん)・東塢亭(とううてい)・梅月堂・観鶩亭(かんぼくてい)・臨淵社・万水楼・一月楼という。父は鳥取藩藩士・荒井小三次。 少年時代は縁戚の奥村定賢に育てられながら奥村純徳を名乗り、国学を修めた。また清水定固に和歌を学び、寛政5年(1793年)、歌道をもって身を立てるべく京都に出て苦学しながら小沢蘆庵に師事した。のち門人たちと結社を興して和歌の革新に熱中した。彼の所説は伝統的文芸たる和歌の本質を「しらべ」におき、心情の「まこと」を推して「しらべ」に参入することにより、歌の表現を果そうとする復古の道であった。したがってその歌風は清新で、さわやかなリズム感がある。これによって全国に彼の結社「桂園派」の門戸が広がり、近世和歌の世界をリードし、さらに、その影響は近代にまで及んだ。 京では徳大寺家に出仕し、寛政11年(1799年)31歳の時、二条派の歌人・梅月堂香川景柄(かがわ・かげもと)の養子となった。その後文化元年(1804年)に香川家を去ったが、香川を名乗り続けた。 天保14年(1843年)3月27日、京都に没した。享年75歳、京都東寺町聞名寺の香川家墓地に葬る。 著書には『新学異見』、『詠草奥書』、『随所師説』、『歌学提要』、『百首異見』、「土佐日記創見』、『古今和歌集正義』、還暦記念自撰歌集『桂園一枝(雪花月の3巻)』、『桂園一枝拾遺』などがある。 |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 氏 名 | 品 名 | 制作/発行 | 日 付 |
00056 | 香川景樹 書 | 和歌「清見関」 | − | − |
01671 | 香川景樹 作 | 和歌「旅恋」 | − | − |
t0280 | 香川景樹 書 | 和歌「野寺僧帰」 | − | − |
◎ | ◎ | ◎ | ◎ | ◎ |
05565 | 森繁夫 著 | 『人物百談』 | 三宅書店 | 昭和18年 |
出典1:『人物百談』、269頁、「大歌人香川景樹」、森繁夫著、三宅書店刊、昭和18年7月15日 出典2:『日本書道史』、273頁、奥山錦洞著、清教社刊、昭和16年12月5日 出典3:『国史大辞典3』、158頁、国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館刊、昭和58年2月1日 |
2005年6月13日更新:レイアウト●2006年6月2日更新:タイトル・所蔵品●2006年10月4日更新:所蔵品●2008年1月15日更新:経歴・本文●2009年8月14日更新:経歴・本文●2010年1月27日更新:写真・経歴・本文・誠之館所蔵品・出典●2010年6月3日更新:誠之館所蔵品●2010年7月2日更新:誠之館所蔵品●2010年11月9日更新:経歴・本文・出典● |