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福山誠之館同窓会会長(第8代)、医師 | |||||||||
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経 歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:昭和2年(1927年)1月1日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:平成30年(2018年)4月18日、享年91歳 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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「私の四十年」 岩崎博 |
何しろ自分が30、40歳まで生きていられるとは思ってもみなかった戦争真っ只中に青春を過ごした身とあって、いまこうして無事に還暦に至る年月を過してこれたこと自体不思議な幸運であり、結構長く生きられたもんだと思う。 誠之館の4年から石井・小林両兄と一緒に広高に入り、あのいびつで窮屈な戦中の時代、よく許されたと思う程の自由が満喫できた寮生活の1年は、それまで誠之館で教練万能のシツケ教育に嫌気がさしていた身には夢のように充実した1年であった。 だが翌昭和19年には戦局の厳しさを受けて学徒動員に駆り出され、呉工廠で油にまみれて高射砲の組立、ヤスリ仕事に精出す身となった。 大学への進学も動員先の呉からそのまま。 試験もなく1年の時の成績で決めるから東大医以外はどこでもよさそうだということで、温かく食い物に恵まれていそうな九州博多の大学をえらんだ。 別に医学部である必要もなかったが、その際担当教授が、「死に急ぐことはない。兵役の延長がある軍医になりなさい」と勧めてくれたのが決定的に効いてのことであった。 一生の仕事を、その場つなぎだけで選んだ訳だが、入ってみると案外同じ理由で医者になった者が多かったのも一つの時代であったのだろう。 昭和20年4月、夜汽車の鈍行にゆられて博多の箱崎駅に柳行李と当座の食い物を詰めたリュック一つを背負って下りたったが、先輩の世話で入った下宿では夜毎手焙火鉢にそだ木を燃やして雑炊をたき渇をいやした。 まだ福岡空襲までの数ヶ月は平穏で、何とか解剖、生理などの講義で忙しかったが、5月のある日、解剖教室に米人捕虜がトラックに目かくしされて運び込まれ、その数日後、解剖の実習室の台上にずらり並べられた米人屍体を、偶々トイレに行った一人が見つけて騒ぎだし、あわてて数人でかけつけた。 さすがに深刻な衝撃を受けたが、それがのちの九大事件の現場であった。 戦後の学生生活には余り勉強の記憶はない。 学校も余り出ず、当時社交ダンスが盛んになると、下宿が近い福山組の農科の高橋義章君、工科の菅田文太郎君、それに現在マツダ専務の藤井明君などと、めかしこんで町のホール通いに励んだ。 その頃一時菅田君の下宿に転がりこんでいたが、医学部先輩の母上が箱崎でお茶の先生をされているのを嗅ぎつけ5,6人の仲間を引き入れて入門した。 娘さんと茶菓子目当ての茶の湯修業であったが、私には博多でその洗礼を受けたことがあとで尾を引く形になった。 昭和24年に大学を卒業したが、この時私は22歳。 戦中戦後のドサクサとはいえ、未曽有の若い医学士が誕生したことになる。 さすがに怠惰安逸の生活に厭気がさして、何とか規律のある生活に戻らねばなるまいと発憤し、インターンの1年を長崎の大村国立病院を選び、遥か西国へ流れた。 何とかこの頃からやる気が出て来た具合で、昭和25年の国家試験の前は4ヶ月程昼夜を逆さで勉強三昧に打ちこんだが、今振り返ってみると一生のうちでこの4ヶ月くらい勉強した記憶は前にも後にもない。 大村にそのまま残る道もあったが、やはり母校の九大にひかれて昭和25年に博多に舞い戻り、その後6年つづく九大皮膚科教室の生活が始まる。 半年たって助手になり、始めて6千円の手当てを支給された。 環境順応性は割合ある方で、結構教室の居心地も良くなり勉強もしたが、飲み手が揃った先輩に囲まれて遊びにもよく励み、酒量も頓にあがった。 昭和29年医局長に選べれたが、当時管轄する在籍医師は100名をこえ、折りしも炭坑全盛とあって筑豊一円は活気に溢れ、人事職権は九州ほぼ全域、対馬にも及び、各地の院長は入れ代わり医局長を訪れ医員の配分を懇請する状況で、夜ともなれば製薬関係の諸士が目白押しに控えるという仲々羽振りのよいことであったが、実のところ余りの派手さに恐れをなし、再任の要請を無理に断って医局長を下り講師職に専念させてもらうことにした。 昭和31年の夏、広島日赤の部長が九大の教授に転出されたのを受けて、「お前があとへ行け」と教授に説得されて履歴書をあずけたが、日赤側は30歳にもならぬ若僧では他科との釣り合いがとれぬと難色を示し、最終的に現在の日赤院長弘中先生に山口日赤から移って頂くことになった。 そうした行きがかり上、「あとは私が拾います」と山口行きを自分で買って出ざるをえなくなり九大生活にピリオドを打つことになった。 この間の研究業績にもふれさせて頂くことにする。 私の仕事の第一は梅毒の抗生物質による治療で、これが学位論文になった。 そのあと手掛けたのがかびの病気、とくにガンジタ症の研究で、当時とくに抗生物質の繁用によりこの病気がふえたことで注目された。 皮膚科だけでなく他科領域も包括し九州一円に症例蒐集の間口を拡げたが、この領域ではのち皮膚科全書のなかで分芽菌症の一冊を受け持ち単行本を出した。 本格的な医用真菌の本としては当時前例がなく、病因論など今でも評価に耐えうるものと思っているし、20年もたってから、やはりこの方面の専門家であった現金沢大福代教授が当時のことをよく覚えていて過分に称讃され、一夕歓談したことがある。 3番目にやったのは、当時精神身体医学がアメリカから移入され、とくに九大では池見教授、金久教授(鹿大)などがこれに注目され、新しい分野に挑戦されていた。 私も金久先生からたきつけられて九大臨床心理研究班に参加、皮膚科領域を対象としロールシャッハ、麻酔分析などを手段にして、情緒因子の関与のありかたを探ろうとした。 3年程やるうちに随分興味のある結果をえて幾つかの論文を出し、また全国ネットのラジオで何回か放送したりもしたが、九大を去り中断してしまった。 その後10年位たって皮膚科の方で改めてこの方面が見直されることになったが、本格的な研究としては私のものがその端緒であったと自惚れている。 山口日赤は当時山口県では第一等の病院であり宇部の大学病院よりは有名だった。 赴任の際は大型のフォードに乗せられて知事の所へ出向き直接辞令を渡された。 患者は山陰を含め全県に亘りとくに九大ではもう少なくなっていた腎結核患者が多いのに驚いた。 2年半の在職中に80例をこえる腎摘出手術をこなしたが、山口は県庁の所在地とはいえ全く旧態そのままの静まった街で、それだけに人情厚く純朴で医師は大事にされた。 この頃初任給は4万円位だったが、それでも大学に比べると倍増していたと思う。 いささか生活の安定をえたことで身を固めるつもりになったのであろう、赴任の年玉島から見合いで妻を娶り、山口の、深い森に囲まれた野田大社で院長仲人で式を挙げた。 長男出生後暫くして久留米の奥野教授から助教授の話があったが余り気も進まず、家の方も長男のことだし放ってもおけない状況にあったので、迷った末それを機会に福山に帰り開業することに決めた。 誠之館を昭和18年に出て15年振りの帰福であり、殆ど知った人もいまいと思ったが、旬日のうちに原、大久保、青山など沢山の皆さんが激励にかけつけてくれ浦島太郎の気分を払拭してくれた。 だが全部借り入れでひっそり始めた開業生活は、やってみると生活のリズムが全く違い、日常診療自体にも研究生活におけるほどの馬力も湧かない有様で、3年程はいやいやの態だった。 それがいま、何時か25年も経ってしまい、毎日このパターンで身体を動かすのが一番体調がよいと思うまでに慣らされてしまった。 開業してからの私については割合皆さんによく見て頂いているので書くこともあるまいと思う。 余り医業に張り切ることもしなかったが、時機に恵まれ順調に過せてきたと思う。 ちょっと落着いてみると、精神的な全力投球の場が欲しく、あれこれののち古美術茶の湯の研究にのめりこんでしまい、とうとうこの方面で結構有名になってしまった。 も一つ私にとっての転機は、今になって考えると、20年前、誠之館総会の実行副委員長を引き受けたことではないかと思う。 その頃もうやることは終ったという一種のリタイア開業の気分がつよく、到底人前に出てとりまとめて行くような姿勢ではなかったが、原君はじめ5,6人の強引な口説きに負け開き直った感じで引き受けてしまった。 この居直りが、やがて誠之館PTAのお世話に繋がったり、人から宴会屋だとからかわれる位、会作り、プロジェクトのチーム作りに動き廻ることに意欲を感ずることになってしまった変身の、そもそもの出発点であるような気がする。 (出典1) |
「誠之会館落成にあたって」 岩崎博 平成13年10月 |
平成十二年十一月誠之会館落成以来約半年、多くの皆様にご支援頂きながら鋭意整備に当たって参りました同窓会室並びに歴史資料室も漸く形を整え、本日阿部正紘様、辰野県教育長様、三好福山市長様はじめご来賓、関係各位多数のご参会のもと開館開室祝賀式典をかくも盛大に挙行される運びとなりましたことは誠之館同窓会にとり大きな喜びであります。 先刻は皆様と共に母校玄関前庭において、誠之会館の落成と、歴史資料室開室のテープカットに続き、記念展示の披露がなされました。 また従来雑然とした物置然たる状況の記念館は内部を白壁に塗り直して不必要な物品を取り払い、正面の床には正弘公御諭書を、床上には藩校時代四藩主の肖像、さらに床脇には幕府軍艦旗である日章旗の姿を掲示し、正弘公布達によることを示しました。 これにより、オリジナルな藩校玄関が伝わる歴史建造物たるにふさわしい、厳粛な雰囲気に近づいたと思っております。 会館正面には、今は亡き日本画壇の元老塩出英雄先生の、昨年秋すでに病床にありながら「機会を与えていただき光栄です」と即座に承諾して揮毫され、今は絶筆となりました、記念すべき「誠之会館」の題字を仰ぎ、また専用玄関入口に掛かる「福山誠之館同窓会」並びに「誠之館歴史資料室」の片山宥雄大先輩による雄渾な二枚の銘板を拝見し、長年会館建設に情熱を傾けられた多くの先輩達のご苦労、ここに至る長い歳月を思い起こし、ひとしお感慨深いものがありました。 思えば長い年月であります。 昭和四十六年現木之庄校舎へ移転以来、同窓会本来の場所は失われ、昭和六十三年出版の『誠之館百三十年史』は校庭にプレハブ一棟を建てて編集室として六年、しかも当時激しい誠之館バッシングの時代、誠之館の歴史にかかわる本を出すことに強い抵抗を受けながら、校長さんだけが味方の状況の中でなんとか頑張って、漸く完成したものであります。 かくて昭和六十年以降、猪原修三、小林政夫両会長は長年に亘り精力的に県に再建を請願されますが、時まさに広島県教育の惨憺たる荒廃期でありました。 漸く訪れた教育正常化への待望と、それが県民の澎湃(ほうはい)たる声となり世論となる今日に至るまで、実に二十年の歳月を要しました。 そのことを背景に、陣頭に立たれる辰野県教育長ら県中枢部の素晴らしい決断によって、私共の願いが実を結ぶことが出来たのであります。 請願の趣旨を諒とされ、この難しい時代にかかわらず、会館の復活、誠之館歴史資料の教育的、今日的意義の重さを率直にご理解頂き、ゴーサインを出された県教育長辰野裕一先生ら当局のご英断に最大の敬意を表するものであります。 また長年県議として常に私共の先導を勤められ、道を開かれたわが同窓の、当時ベテラン県会議員竹田浩二弁護士、また現在県議会文教委員長としてご活躍の平浩介議員お二人の、強力なバックアップのご苦労も忘れるわけにはまいりません。 今日の喜びの日を迎えるに当たり、長年のご尽力に改めて感謝申し上げる次第であります。 ご存知のように母校を巡る教育環境もこの数年大いに変わりました。 いま誠之館は総合学科のもとに拠点校として位置付けられ、この新学期からは、初めての民間登用として話題になりました山代猛博新校長を迎え母校への期待感も大いに上っておりますし、私達に学校への抱負を語る先生方の顔にも精気が感じられるようになりました。 ようやくわが母校は在るべき軌道に乗ったんだと実感をもって感じているところであります。 また歴史資料については記念館での収納が危険な状況にありましたので平成三年、県立歴史博物館に一部資料の寄託をお願いすることになり、今日に至りました。 この度十年ぶりの里帰りが叶い、すべての歴史資料が新設の収蔵庫に収まり、展示も出来るようになりました。 今後生徒たちに、百五十年に亘る母校の輝かしい伝統と先輩の歴史を具体的に示し、これが教育資料として実際に活用されることを想像するのは大変嬉しいことであります。 この一年間、私も誠之館資料とはどんなものか自分で取り組むことで何とか理解したいといささかの努力を致しましたが、その資料の一つ一つは本校の長い伝統の中で、阿部家はもとより、江木鰐水末裔家はじめ多くの有識者のご厚情によって寄贈され、また学校資料も順次加えられ、次第に蓄積し、大事に受け継がれて今日に及ぶ生きた伝統資料であり、貴重な教材であることを強く実感しましたし、よくここまで残ったと感嘆するものも少なくありませんでした。 資料の整理、管理、データベース化による公開と研究が、長い視点に立って継続される為には、今後相当の出費を覚悟せざるを得ませんが、全同窓生各位の協賛にすがり、後輩達の為にも是非やり遂げたいものであります。 またなにより大事なことは、この母校の歴史が具体的に生徒の教育に活用されなければならないことであります。 その為には先生たちに、この資料室への期待と育成、運営に対する情熱を乞い願わざるを得ません。 私達は外枠はやりますが中身を動かされるのは現実に教育の場を預かる先生方でなくてはなりません。 それが叶わなければ、いつかまたかつての記念館内部のように、宝の持ち腐れの状況になるのは必然であります。 同窓会、母校一体となってこの貴重な場を実り多いものとしたいものであります。 また初めて誕生した自前の同窓会本部室に、歴代同窓会長の写真を掲げることが出来ました。 本校同窓会は昭和三年十一月、明治二十四年卒の木村茂中将を初代として、以後七十七年に及び、前小林政夫会長は七代目にあたります。 初めての自前の本部室に本会発展に尽力された歴代会長の尊影を掲げ、顕彰する場所が出来たことは私共同窓会にとって記念すべき喜びであります。特に小林前会長は会館建設に激しい情熱を燃やされ、ご退任後も本日の到来を楽しみにされていただけにお見せできなかったのは残念であります。 何時までもこの本部が私共の活動の拠点、全同窓生のバックボーンとして根付き、発展することを期待するものであります。 本日を迎えるに当たり、同窓各位はもとより、多くの外部の皆様のご協力を頂きました。とくに福山市長三好章様からは、本会が同窓会館のありようを長年にわたり模索する過程のなかで、格別のご理解とご厚情を賜りました。 この場を借り改めて御礼申し上げます。 また歴史資料室に関しては一番初めの設計の線引段階に始まり、整理、収蔵、展示に至る万般、福山市芸術文化振興財団に含まれる文学館、美術館、城博物館各館長、学芸員各位のご指導と助力にお縋りし、お陰でこのように素晴らしい特別展示を果たすことが出来ました。 さて、本日の祝典に際し本校創設にかかわる阿部家から、お忙しい中、遠路御嫡子阿部正紘様がご当主の名代としてご参会下さいました。ご承知のように本校歴史資料の根幹をなるものの多くは阿部家ご所蔵のものに由来しております。 一同を代表して厚く御礼申し上げます。 またこの会館の生みの親であります辰野裕一先生にお出で頂くことが出来ました。 まさにこの二年、美濃盛國校長をトップにして変革に取り組まれた誠之館は、お蔭で大きく変わりました。 輝かしい本校の伝統を素直に語りうる環境が整った事こそが、いまこの会館の実現につながり得たことを思い、改めて皆様と共に辰野先生の本県教育にかける情熱に深甚の敬意と感謝を申し上げる次第であります。 本日はほんとにお忙しいご日程の中、無理なお願いに拘わりませず、欣然とご来会を承知下さり、ご講演を承ることが出来ますことは私どもにとって何よりの喜びであります。 ほんとうに有難うございました。 ここにわが同窓会、待望の祝典開催に当たり、今日に至る過程の一端をを述べ、係わってこられた多くの皆様への感謝を申し上げるとともに、わが誠之館、そして同窓会益々の発展を願いお祝いの挨拶と致します。 (出典2) |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
00327 | 岩崎博 書 | 「福山誠之館創立百五十周年記念詩(征鳥出飛)」 | − | 平成15年 |
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02071 | 岩崎博 著 | 『かくあん会記』 | 大日本印刷 | 昭和49年 |
02072 | 岩崎博 著 | 『茶の湯往来』 | 双葉印刷 | 昭和62年 |
02169 | 岩崎博 著 | 『私学弘道館一件帳』 | − | 平成10年 |
02073 | 岩崎博 著 | 『古美術行脚 南蛮・シルクロードの旅』 | 紫紅社 | 平成10年 |
02982 | 岩崎博 著 | 『鶴庵、茶事の追憶』 | 紫紅社 | 平成12年 |
03061 | 岩崎博 著 | 『裂地の楽しみ(お茶のおけいこ第10巻)』 | − | 平成14年 |
03298 | 岩崎博 著 | 『広島医師学会「寺地強平とその一門・医学校の成立と経過」』 | − | 平成14年 |
03236 | 岩崎博 著 | 『茶道具の味わいどころ(お茶のおけいこ第17巻)』 | − | 平成15年 |
04824 | 岩崎博 著 | 『穆翁傘寿録「往時縹渺」』 | 鶴庵文庫 | 平成20年 |
04825 | 岩崎博 著 | 『穆翁茶湯傘寿録「往時縹渺」』 | 鶴庵文庫 | 平成20年 |
06785 | 岩崎博 著 | 『岩崎博氏寄贈 染織コレクション』 | 広島県立美術館 | 平成24年 |
07405 | 岩崎博 著 | 『岩崎穆翁 鶴庵交遊録』 | 紫紅社 | 平成28年 |
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02060 | 岩崎博著 福山誠之館同窓会 編 | 「昭和十九年卒業生における在校の記録」 『懐古−誠之館時代の思い出−』、184頁 | 福山誠之館同窓会 | 昭和58年 |
02036 | 岩崎博著 福山誠之館同窓会 編 | 「私の四十年」 『福山誠之館一九会記念誌 星霜四十年』、140頁 | 福山誠之館十九会 | 昭和59年 |
03301 | 岩崎博著 福山誠之館同窓会 編 | 「落成記念式典式辞」 『誠之館同窓会報会館落成記念特別号 語りて光栄の歴史あり』、33頁 | 福山誠之館同窓会 | 平成13年 |
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07405 | 筒井紘一 著 | 『平成茶道記 現代数寄者の茶事・茶会 | 淡交社 | 平成28年 |
探しています | |||
氏 名 | 書 名 | 制作/発行 | 日 付 |
岩崎博 著 | 『日本皮膚科全書「真菌篇」』 | 金原書店 | 昭和31年 |
岩崎博 著 | 『菌交代症』 | 医学書院 | 昭和35年 |
岩崎博 著 | 『茶湯の造形』 | 紫紅社 | 昭和55年 |
岩崎博 著 | 『茶事の真髄 十茶人分担趣向茶事』 | 世界文化社 | 平成16年 |
岩崎博 著 | 『立札と茶箱を楽しむ(お茶のおけいこ26巻)』 | 世界文化社 | 平成17年 |
出典1:『福山誠之館一九会記念誌 星霜四十年』、140頁、「私の四十年」、岩崎博、福山誠之館十九会編刊、昭和59年9月15日 出典2:『誠之館同窓会報会館落成記念特別号 語りて光栄の歴史あり』、33頁、「落成記念式典式辞」、岩崎博、福山誠之館同窓会編刊、平成13年10月 |
2005年2月8日更新:経歴●2005年4月12日更新:著書●2006年6月16日更新:タイトル・所蔵品●2006年12月11日更新:所蔵品●2007年3月7日更新:経歴●2007年8月23日更新:関係資料●2007年12月20日更新:主な著書著述・誠之館所蔵品●2008年2月7日更新:経歴・本文●2009年6月22日更新:誠之館所蔵品●2010年5月25日更新:経歴・誠之館所蔵品・探しています●2010年6月30日更新:本文・誠之館所蔵品●2011年8月18日更新:誠之館所蔵品・関係資料(削除)●2012年2月13日更新:誠之館所蔵品●2016年12月23日更新:誠之館所蔵品●2018年5月1日更新:経歴● |