福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
五十川基
いかがわ・もとい
明治初期の英才
五十川基 (出典1)


経 歴
生:弘化元年(1844年)9月6日、福山米屋町(現福山市城見町)生まれ
没:明治6年(1873年)1月21日、享年29歳、浅草西福寺に葬る
弘化2年(1845年) 2歳 父を亡くす
藩校誠之館へ入学
万延元年(1860年) 17歳 医学専念を命ぜられる
文久元年(1861年)10月17日 18歳 西洋学の修業を仰せつけらる
文久3年(1863年)10月17日 20歳 藩から洋学修業を命ぜられ、洋書調所(のち開成所)・医学所に通学修業する
佐藤尚中(さとう・たかなか)の塾において、蘭学を修める
慶応2年(1866年)7月27日 23歳 誠之館の「洋学世話取」
明治元年(1868年) 25歳 督事官
明治2年(1869年) 26歳 (兼)公議下局議長
明治2年(1869年) 26歳 藩立病院同仁館の設立に尽力
明治2年(1869年)4月頃 26歳 体調をくずし、大阪在留の軍医ボードウィンの治療をうける
明治3年(1870年)3月 27歳 病気全快を届け出、「政事堂掌吏」に任命される
明治3年(1870年)4月20日 27歳 東京出張を命ぜられる
明治3年(1870年)4月22日 27歳 早打駕寵で福山を発ち、東京で岡田吉顕を補佐
明治3年(1870年)8月9日 27歳 南部英麻呂のニューヨーク留学の随員として福山松が端(現福山市松浜町)を船で出発
明治3年(1870年)8月28日 27歳 横浜を発つ
明治4年(1871年) 28歳 コロンビア大学へ入学
明治4年(1871年)12月 28歳 肺結核が再発
明治5年(1872年)10月11日 29歳 横浜に帰着
明治5年(1872年)10月〜
 明治6年(1873年)1月
29歳 東京の寓居において母親の看病で療養


生い立ちと学業、業績
生い立ちと修学
五十川基(通称は基之丞・芳之丞、字敬甫、号米里)は、弘化元年(1844年)9月6日、藩医五十川周圭(名は修敬・修徳、号葦水、周圭は字、五十川左武郎(五十川訊堂)の実兄、江木鰐水の義兄)の嗣子として福山米屋町に生まれた。
母は河合絹子である。
五十川家は代々医を業としていたが、周圭にいたって蘭方に転じ、大いにその志を伸ばそうとした矢先、弘化2年(1845年)早世した。
2才にして父を失った基は、母の愛護と、江木鰐水(父の妹の夫)の薫陶を受けて育ち、誠之館入学後は、穎悟絶倫、考試のたびに頭角をあらわした。
万延元年(1860年、17歳)医学専念を命ぜられたが、翌文久元年(1861年、18歳)10月17日西洋学の修業を仰せつけられて、洋学専修の道を進みはじめた。
同日付で、洋学修業を命ぜられたのが、野上村小林三六倅達太郎(18歳、のち小林義直)、江良村医師佐沢泰介倅元太郎(24歳、のち佐澤太郎)であり、いずれも寺地強平の門下生であった。

文久3年(1863年)10月17日、佐沢・小林・五十川の3人は藩から洋学修業を命ぜられ、江戸の藩邸に寄留して幕府の洋書調所(のち開成所)・医学所に通学修業し、その間に、佐沢は仏学(フランス語)、小林は英学を学んでいる。
五十川の学歴は、やや不明確であるが、関藤藤陰の撰した墓表には、「遂往来干江戸攻洋書才名大震」とあり、平川鴫里筆「寺地強平伝」には、「五十川・小林ハ後ニ下総ノ佐藤尚中
(さとう・たかなか)ノ塾ニ入り、蘭学ヲ修メ、五十川ハ学成ルノ後、藩ニ帰り・・・」と述べられていて、はぼ小林と同じ途を進んだと思われる。
しかし成業後直ちに福山に帰ったのは、譜代の藩士として、幕末多事の福山藩を留守にするわけにいかなかったのであろう。


経歴
「誠之館一件帳」によれば、慶応2年(1866年)7月27日、誠之館の「洋学世話取」を命じられているから、その頃帰福したようである。
明治に入って、明治元年(1868年)には督事官(25歳)、明治2年(1869年)には「公議下局議長」(26歳)としだいに重用され、20代半ばの若さで、(「区処老成、衆服其能」五十川敬甫墓表)という衆評であった。
またこの年、恩師寺地強平を助けて、藩立病院同仁館の設立に力を尽している。
しかし明治2年(1869年)4月頃から体調をくずし、大阪在留の軍医ボードウィンの治療をうけている。
恐らく肺結核にかかったものと思われる。
翌明治3年(1870年)3月、病気全快を届け出ると、間もなく「政事堂掌吏」に任命され(27歳)、さらに4月20日、東京出張を命ぜられて、22日早打駕寵で福山を発った。
これはこの月5日に召集された集議院に、福山藩議員として参加していた岡田吉顕を補佐する任を帯びて上京したのである。
その後7月、岡田吉顕上申の「藩治本論」の原稿が、五十川の手によったものと推定するのは、その内容がすぐれて近代性をもっていたからである。

東京滞在中、彼はかねて熱望していた洋行の機会をとらえた。
当時大学南校では、はじめて海外留学生を派遣する計画を立てていたが、これと並行して、皇室では皇弟華頂宮博経親王の米国留学と、これに随行する盛岡藩知事の弟南部英麻呂の留学が決定され、親王の随員として高戸賞士(江木鰐水4男、高戸家養子22歳)が、南部英麻呂随員として五十川基が選ばれたのである。
高戸賞士は大学南校寄宿生として太政官の命によったが、五十川の方は、陪従を願って許され、福山藩命による留学という形式になった。

明治3年(1870年)8月28日、一行9名(親王方6名南部侯方3名)を乗せた船は横浜を解纜した。
彼等のニューヨーク到着までの紀行・感想は、五十川の長文の書簡集「東洋紀行」(『広島県史・近代資料編Y』)に詳細に述べられている。
またその後の鰐水宛の書簡では、米国の教育事情や学校生活、250人にものぼる日本人留学生の評判などを知らせて来ている(『鰐水日記』明治4年6月24日、明治4年(1871年)12月22日、明治4年12月27日)。
その中で、自分達の通っている学校の教科や試験の得点を書き送って来た手紙は、大変興味深い(「日記」明治4年12月22日)。

「学校は毎日生徒の勤怠正点表を検す。
40点を下の下と為し、60点を正下、80点を上、100点を最上と為す。
皇国の留学生、華頂王82点、越前柳本(大学南校少助教)84点、佐倉佐藤80点を得、基、賞士並んで100点を得。
これ9月の事なり。
先月10日、王及び柳本・佐藤80点、基98点、賞士90点を得。」

「近日又考試有り。
若し登科(合格)を得れば、すなわち、分析術・経済学・古昔歴史・画学・ジョーメトリーの算法を学ぶべし。
教師皆阿墨(アメリカ)中有名之人、益を得ること多し。
覚えず勉強して食を忘るに至る…。(下略)」

こうした勉学の結果、入学半年にして、2人とも大学(コロンビア大学)に入ることができた。
留学生の中には、不勉強の者、尊大な者もいたが、基は人となりが温良着実にして、能を誇らなかったので、日本留学生中の領袖といわれた程であった。


罹病

こうして在米1年半を経た頃、明治4年12月、宿痾の肺結核が再発した。
転地療養によって、一時小康を得たものの全快に至らず、明治5年10月11日横浜に帰着、東京の寓居で、母の看病を受けつつ療養につとめたが、病状は好転しなかった。
死に近い明治6年(1873年)2月11日、基は叔父であり師である鰐水につぎのように語った。
「西洋宗教の源理は、孔子の道と符合するものがあります。
『中庸』 は読むべき書です。
先年叔父上に『中庸』を習いましたが、今日ふりかえって見て、実に有益の書だと思います。」
またこうもいった。
「私が死んだら、棺中には、四書の小本1部と洋書1冊だけ入れて下さい。
母上に遺言しますが、身体は死ねば、虚しくなります。
棺の中には多くのものを入れないで下さい」と[「鰐水日記」明治6年(1873年)2月16日]。
この洋書1冊の書名は記してないが、その前のことばから、バイブルではないかと思われる。

それから5日後、明治6年(1873年)1月21日、東京神田三河町の寓居において、基の病状は革
(あらた)まり、苦痛の様子もなく、静かに永眠した。
母、義理の叔父
江木鰐水と、親友小林義直(30歳)・佐沢太郎(36歳)の4人に見とられて五十川基は静かに28年5カ月の生涯を閉じた。
小林・佐沢と五十川の3人は、庶民と藩士出身という身分の差はありながら、同時に誠之館に学び、共に洋学をもって世に立ったいわば同期の友であり、福山藩を代表する俊才であった。
五十川がこの2人の友を、臨終の床辺に呼んで、今生の名残を惜しんだ心情は、哀傷のきわみというべきであろう。


まとめ

阿部家代々の菩提寺、浅草西福寺に葬られた。墓表は阪谷朗廬(阪谷素)の撰。
旧誠之館出身者中、もっとも将来を期待された逸材であり、「和魂洋才」の典型的な体現者であった。
在米中にドイツの軍事書『林戦要録』を翻訳出版した。
   (出典1〜4)


誠之館所蔵品
管理 氏  名 名  称 制作/発行 日 付
00054 五十川基 書 寿詞「南極」 元治元年
(1864年)
 ◎
04708
大塚孝明
石黒敬章
『明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム』 平凡社 平成18年
04763 塩崎智 著 『語学研究(第114号)、「<研究ノート>幕末維新在ブルックリン(NY州)日本人留学生関連資料集及び考察(1)」』121頁 拓殖大学言語文化研究所 平成19年
04833 塩崎智 著 『語学研究(第116号)、「<研究ノート>幕末維新在ブルックリン(NY州)日本人留学生関連資料集及び考察(2)」』123頁 拓殖大学言語文化研究所 平成19年
04850 塩崎智 著 『語学研究(第117号)、「<研究ノート>幕末維新在ブルックリン(NY州)日本人留学生関連資料集及び考察(3)」』33頁 拓殖大学言語文化研究所 平成20年


出典1:『明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム』、91頁、大塚孝明・石黒敬章著、平凡社刊、2006年5月22日
出典2:『誠之館百三十年史(上巻)』、113・166・167・191・207・213・217頁、福山誠之館同窓会編刊、昭和63年12月1日
出典3:『広島県の医師群像−明治時代−』、37頁、阪田泰正著、安芸津記念病院郷土史料室刊、昭和61年1月1日
出典4:『福山学生会雑誌(第53号)』、附6、「五十川敬甫墓表」、濱野知三郎著、福山学生会雑誌事務所編刊、大正7年7月3日
2005年1月31日更新:本文●2005年3月23日更新:本文●2006年2月23日更新:所蔵品●2006年6月15日更新:タイトル●2006年7月18日更新:写真●2007年2月14日更新:所蔵品●2007年5月2日更新:関連情報●2008年1月23日更新:本文・関連情報削除●2008年3月31日更新:経歴・出典●2009年6月13日更新:本文・誠之館所蔵品●2009年9月17日更新:経歴・誠之館所蔵品●●2009年10月19日更新:本文・出典●2010年3月29日更新:本文・出典●2011年9月30日更新:経歴・本文●