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日本画家 | |||||||||
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経 歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:明治7年(1874年)、長野県伊那郡飯田町(現飯田市仲ノ町)生まれ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:明治44年(1911年)9月16日、享年38歳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 | ||
明治時代後期の日本画家。明治7年(1874年)長野県伊那郡飯田町に生れる。本名は三男治(みおじ)。明治22年(1889年)上京、狩野派の結城正明に日本画を学ぶ。 翌明治23年(1890年)東京美術学校に入学、岡倉天心・橋本雅邦らの指導を受け、明治28年(1895年)同校を第1回卒業。卒業制作「寡婦と孤児」は雅邦に激賞され首席となる。 天心のもとで古典模写に従事し、明治29年(1896年)母校の教員となり、日本絵画協会に加わり、その絵画共進会で毎回受賞し画名を高めた。明治31年(1898年)美術学校紛争で校長天心に殉じて辞職し日本美術院創設に参加。そのころより先輩横山大観・下村観山らと没線(もっせん)主彩描法を試み、いわゆる朦朧(もうろう)画風の急先鋒となり、「菊慈童」、「王昭君」、「蘇李訣別」など発表した。 明治36年(1903年)から明治37年(1904)年にかけてインドおよび欧米旅行に出発、海外美術の特色を研究し、帰国後美術院移転により五浦時代・代々木時代に入るが、色と線を調和させながら新画風を編み出した。文展に出品した「落葉」、「黒き猫」(ともに重要文化財)はそのあらわれでもあり、明治日本画の代表傑作である。明治44年(1911年)9月16日没。38歳。日本画の革新と近代化の功績は大きいが、早世は惜しまれている。 |
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誠之館に00337山水画「観瀑図」があり春草となっているが、菱田春草という確証がない。 |
出典1:HP「飯田市美術博物館」 出典2:『国史大事典(第11巻)』、898頁、吉川弘文館編刊、平成2年9月30日 出典3:『新世紀ビジュアル大辞典』、2157頁、学習研究社編刊、1998年11月9日 |
2005年8月2日更新:レイアウト●2006年6月28日更新:タイトル・所蔵品●2006年10月6日更新:所蔵品●2008年1月18日更新:写真・本文●2016年11月21日更新:誠之館所蔵品(削除)● |