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福山市老人大学学長 | |||||||||
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経 歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:大正6年(1917年)、広島県福山市生まれ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:平成17年(2005年)1月27日、享年88歳 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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「抱十会」 平田正 (昭和10年卒) |
「放縦」と違って、抱十というのは昭和10年の誠之館卒業生の同級生会のことである。 お互いがかかえ合い、いだき合うという意味である。 卒業後、しばらくたった昭和21年(1946年)頃、学年会を催し、発会し、爾来級友の親睦と発展を中心として、この抱十会は盛会をつづけている。 この抱十会の私たちは昭和5年(1930年)入学し、日本の歴史でも満州事変の勃発など、変革のはじまりで、当時の私たち中学生活にも変化に富んだものであり、今、回顧して、懐しさで一ぱいであり、心の温まる想いがする。 先ず、霞町の古色蒼然たる歴史ある校舎より、三吉町の福山師範学校跡への移転が、丁度、2年生と3年生の間の春休みに行なわれた。 トラックに、机や植木を積んで運んだこと。 そして、廃墟と化した三吉町校舎を学友と共に再建したこともよき思い出である。 授業も懐しいものが多く、教育に関係する私の今の立場から考えてもユニークなものが多かった。 凸凹の多い机で、男ばかり教室いっぱいに、質実剛健、誠之!!誠之!!といって5年間精出した青春時代は今の生活の原動力であり懐しいものである。 講義式が中心であったが、宿題も多いし、教権の強い時で生活指導もやかましかった。 修身の授業は校長さんがされたが、担任の先生の監督のもとで、いかめしいものであった。 それでも中には英語の単語を暗記していた者もいたようだ。 よい悪いは別として、成績序列も学期ごとに明瞭になり、お互は番数が落ちないようにと一生懸命であったことも事実である。 現在の高校でもクラブ活動を重視しているが、案外、当時の方が部活動は盛んであった。 私は剣道部に属していたが、中学生活の中心はこんな部活動にも重点があった程である。 学校行事も今と余り違ったとはいえないが、気候の関係もあって、毎年1回は大雪が降って、雪中行軍で授業がとぶのがまた楽しみでもあったようである。 また、時代も違うが、教練や野外演習なども大きいウエイトである。 次にまた特筆したいのは、応援団の改組である。 私たちの4年生までは、上級下級の間が応援歌の練習を中心として、余り仲がよくなかった。 重圧さえ感ずるものであった。 学校当局の提案もあって、5年生の時、応援団役員に学校の役員を当てるという、いわば、官制的色彩も加わったのが私たちの時からである。 私は、そんなもののまとめ役にもなり、私からいえば官制よりも、民主的で、上級生の重圧をなくする思い切った改革であったと思っている。 応援歌の練習もしたが教師も交えて楽しい雰囲気で気楽に学園集会というイメージが出来たように思っている。 さて、中学生活の想い出はこの位にして、次は、抱十会として同窓会への働きである。 まとまりもよいわが十年組は、大同窓会にも当初から比較的多く参加していた。 然し、明治・大正・昭和の卒業生のほんの有力なメンバーが中心で、数も百人前後の事が長く続いた。 たまたま、当番幹事学年の昭和2年組と私たち昭和10年組とが中心になり、多くの卒業生のための大同窓会を計画し、一挙に千人近い同窓生を大動員し、今日の同窓会総会の道筋が出来たことは誠に喜ばしい次第である。 一体、同窓会の在り方は、その学校の校風の延長であり、極めて大事なことである。 私は広大福山附属で15年間教鞭をとり、葦陽高等学校長を4年間すごし、他の学校での教師や、教育行政にもいたので、それぞれの長短が窺われるのである。 それは、その在学生だけの校風でなく、歴史の積み重ねであり、卒業生、在校生、同窓会、PTA等渾然一体での学校カラーの総和がその学校を物語っているように思う。 私の関係した3校についても、葦陽は何んとしても貞淑温順な精神が校風になり、同窓会の会合に出てもその色彩を強く感じるし、広大福山附属においては、自由・闊達で歴史の若さはかくし切れないのであり、わが誠之館は一貫して誠之の精神と質実剛健が在学生にも同窓会にもにじみ出ているように思う。 抱十会の学年会でも、50年前を想い出しては、質実剛健をモットーとして当時の応援歌を斉唱して別れるのが常例になっているのも、こうしたことを物語っている。 私たちの卒業後は、日本にとっても、戦前・戦時・戦後と有史以来の大変革のあった時である。 教育制度も二転三転し、現在は総合選抜制による誠之館高校である。 私たち抱十会の会員も、この歴史と共に極めて多難な生涯を過してきた。 しかし、変っても変わらざるものは、中学時代の友情であり、誠之館魂である。 霞町校舎のアカシアの樹、三吉町時代のポプラの並木、今は所は二転三転しても私たちの心からは、離れない懐しいものであり、今後の生涯の生きる糧にもなってくれるものと思う。 (出典1) |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
02136 | 平田正 著 | 『一すじの道−私の教育随想−』 | 東方出版 | 昭和56年 |
02137 | 平田正 著 | 『生涯大学−生きがいと長寿の創生−』 | 平田正 | 平成元年 |
03460 | 平田正 著 | 『人間回復の社会奉仕』 | 平田正 | 平成15年 |
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02060 | 平田正 著 福山誠之館同窓会 編 | 「抱十会」、『懐古−誠之館時代の思い出−』、157頁 | 福山誠之館同窓会 | 昭和58年 |
出典1:『懐古−誠之館時代の思い出−』、157頁、「抱十会」、平田正、福山誠之館同窓会編刊、昭和58年5月15日 出典2:『すい松館 深津小学校百二十周年史』、深津小学校百二十周年記念誌編集委員会編、深津小学校百二十周年記念誌発行委員会刊、平成7年3月1日 出典3:『福山附属五十周年記念誌』、375頁、広島大学附属福山中・高等学校編刊、1999年11月15日 出典4:『創立七十周年記念誌』、序・253頁、広島県立福山葦陽高等学校七十周年記念誌編集委員会編、広島県立福山葦陽高等学校・同窓会・PTA・ETA刊、昭和53年5月28日 出典5:『黎明(第10号)』、84頁、広島県高等学校退職校長会福山地区支部編刊、平成17年11月 |
2007年8月22日追加●2008年2月22日更新:経歴・本文・出典●2008年3月3日更新:経歴・出典●2008年7月3日更新:経歴●2009年8月19日更新:経歴・誠之館所蔵品●2011年8月18日更新:誠之館所蔵品●2011年8月24日更新:本文● |