明治2年(1887年) |
16歳 |
協和小学校卒業 |
明治2年(1887年) |
16歳 |
野沢町有隣義塾において依田稼堂に師事し、漢字を修める |
明治25年(1892年) |
20歳 |
上京し小石川の哲学館において漢学を修める |
明治25年(1892年) |
20歳 |
日下部鳴鶴に師事し書法を学ぶ |
− |
− |
岡本黄石に師事し詩を学ぶ |
明治31年(1898年) |
27歳 |
二松学舎に入学し、漢籍、金石文字学、各体字学を研究 |
明治33年(1900年) |
29歳 |
鴻と改名 |
明治34年(1901年) |
30歳 |
田中元子(のちの小琴)と結婚 |
明治34年(1901年) |
30歳 |
東京陸軍地方幼年学校および東京陸軍中央幼年学校習字科教授嘱託 |
明治34年(1901年) |
30歳 |
文部省検定委員に任命される |
明治34年(1901年) |
30歳 |
鎌倉建長寺内正統庵に独居 |
明治34年(1901年) |
30歳 |
古典、古法を悟り、剛毛筆により書法を一新、近代書芸術の基礎を確立する |
明治35年(1902年) |
31歳 |
私塾を開く |
大正3年(1914年) |
43歳 |
日下部鳴鶴の依頼により雑誌「書勢」を引き継ぐ |
大正3年(1914年) |
43歳 |
松田南溟とともに新しい用筆法を発見する |
大正4年(1915年) |
44歳 |
東京師範学校文科習字科講師 |
大正5年(1916年)〜
大正8年(1919年) |
45〜
48歳 |
文部省検定委員を委嘱される |
大正12年(1923年)7月 |
52歳 |
神奈川県鶴見町に書道院の建設を始めるも関東大震災により挫折 |
大正12年(1923年)11月 |
52歳 |
信州上田に転居 |
大正13年(1924年)2月 |
53歳 |
再度罹病 |
大正13年(1924年)6月 |
53歳 |
東京代々木に居を構え、書学院を開く |
大正13年(1924年) |
53歳 |
「餘清斎帖」を発行する |
昭和元年(1926年) |
54歳 |
朝鮮遊歴 |
昭和2年(1927年) |
55歳 |
書学院を創設 |
昭和7年(1932年) |
61歳 |
東京美術学校講師 |
昭和7年(1932年) |
61歳 |
鎌倉で書学院の建設に着手する |
昭和8年(1933年) |
62歳 |
神奈川師範学校講師 |
昭和10年(1935年) |
64歳 |
台湾遊歴 |
昭和12年(1937年) |
66歳 |
大日本書道院創立 |
昭和12年(1937年) |
66歳 |
帝国芸術院会員に推挙される |
昭和13年(1938年)1月 |
67歳 |
「慰霊之碑」および「戊寅帖」所収の作品を揮毫 |
昭和13年(1938年)2月 |
67歳 |
帝大病院へ入院、手術までに大判色紙10数枚を揮毫 |
昭和13年(1938年)4月末 |
67歳 |
退院 |
昭和13年(1938年)8月末 |
67歳 |
再入院 |
昭和13年(1938年)11月 |
67歳 |
鎌倉へ移り静養、その間20数枚の作品を揮毫 |