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漢学者、漢和大辞典編纂、福山学生会会長、従六位 | |||||||||
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経 歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:明治3年(1870年)10月5日、備後国深津郡奈良津村21番邸(現福山市奈良津町)生まれ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:昭和16年(1941年)10月5日午後8時、東京三楽病院で没、享年72歳、東京都渋谷区浄土宗法界山清岸寺に葬る | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
『知三郎は、穆軒(ぼっけん)と号し、名は知可、字は士信という。』 (出典2) 生いたち (出典1) 明治3年(1870年)10月5日、旧藩士文蔵の二男として母サカによって、広島県深津郡奈良津村21番邸(現福山市奈良津町)で生まれた。 明治17年(1884年)初頭から個人的に師を求めて勉学した。明治18年(1885年)2月福山中学校(誠之館)へ入学したが、翌年6月腹違いの長兄が早逝した。 これに関連してか、今となっては不明の理由によって父文蔵は苦境に陥っていたようである。 このため知三郎は入学の2年後中学を退学して、父を助けるために小学校の代用教員となった。 ただし個人的な勉学を継続できたのは、父の配慮であったと考えることもできる。 一家が住所を福山町大字東町へ移したのは、このころではないかと思われる。 因みに濱野家は代々、福山市明治町の浄土宗正覚山安楽寺を菩提寺としており、過去帳によって文蔵を含めて4代前までさかのぼれる。 その戒名の形式から代々藩士であったといえる。 なお知三郎以下は東京の浄土宗清岸寺に菩提寺を移した。 明治28年(1895年)2月武田トミ[登美]と婚姻、1男4女を儲けた。 学業 (出典1) 明治12年(1879年)8月5日に広島県深津郡吉津小学校を卒業し、明治18年(1885年)2月には広島県福山中学校(誠之館)初等中学科(4年課程)へ入学したが、2年後家事の都合として退学した。 漢学の研鑽には、明治17年(1884年)小学校在学中にはじまって、中学校時代、そのごの福山近辺の小学校に勤務しながら、漢学者松岡退蔵・片山謙蔵兄弟や門田重長・五十川訊堂など諸氏の門をたたいた。 このように、明治初期の向学心に燃える士族子弟が世に出るまでに小学校などに勤めながら、他方でみずから師を求めて研さんを重ねてゆくという生き方は、高島平三郎・福田禄太郎・大和恕堂などにもみられる。 明治28年(1895年)、25歳で東京高等師範学校国語漢文専修科(本科ではなく、修業1年半)に入学し、本郷西片町の誠之舎に入舎し、翌明治29年(1896年)12月24日に卒業した。 上京後のこの頃には佐々木信綱に師事し、国文学の研究にも力をそそいだ。 さらにのち、大正2年(1913年)3月には、42歳にして東京高等師範研究科(漢文科専攻)を卒業している。 職歴 (出典1) 東京高等師範学校を卒業してからの明治30年代での約10年間は、愛媛県、徳島県、岡山県の尋常中学校(中学校)に勤務した。 岡山の県立津山中学校に勤務中の明治40年(1907年)3月、36歳のときに父を亡くした。 父の死後、明治41年(1908年)10月、津山中学校を39歳で辞し、母親を連れ一家をあげて上京した。 そして、まず『新譯漢和大辞典』の編纂から始まり、著述に専念。 その生涯には各種図書の編集補助、校閲、増訂、注釈、刊行など、いろいろな著作や論文がある。 大正15年(1926年)3月、第二東京市立中学校(現上野高校)教諭となり、昭和8年(1933年)9月まで勤務した。 その間、昭和3年(1928年)6月従七位、昭和5年(1930年)7月正七位、昭和8年(1933年)従六位に叙せられた。 昭和5年(1930年)には財団法人「斯文会」教育部委員に就任、昭和10年(1935年)まで、文部省より湯島聖堂の管理を嘱託され、財団法人「斯文会」の発展に寄与した。 昭和16年(1941年)1月、大東文化学院の理事・図書課長に就任した。 新譯漢和大辞典の刊行 (出典3) 完全な漢和辞典がないことを嘆いて、その編纂・刊行を決意した。 明治41年ごろ、それまでの教職の道をたち、上京して編纂作業に専念し、5年の努力の結果、明治45年(1912年)3月に『新譯漢和大辞典』を完成・刊行し、世から好評をよんだ。 福山学生会会長 (出典3) 福山学生会とは、旧福山藩関係者を会員として、明治から昭和18年(1943年)まで続いた会で、『福山学生会雑誌』の発行や、春秋の大会、郷里福山での講演会の開催などの活動を行なっていた。 本部は東京(誠之舎内、一時濱野知三郎宅)で、福山に支部があった。 その会がある事情で危機に瀕したとき、濱野氏は大正11年(1922年)11月にその会長をあえて引き受け、見事にこれを立ち直らせたのである。 一時はその事務所を自宅に設け、勤務のかたわらで雑誌の編集から発送に至るまで献身的に努力され、加えてその費用の立替までされていた。 特に感銘を受けるのは、その業績の基底に燃えていたすばらしい「志士仁人」の精神である。 会長職は、その後昭和16年(1941年)に亡くなるまで20年間の長期にわたって務められた。 濱野文庫 (出典4) 濱野氏の名を不朽たらしめているのは、上京以来40年にわたる蒐書の成果ともいうべき、和漢書1万2千冊を擁する「濱野文庫」である。 この蔵書群は、濱野氏の没後、福岡市の旧「斯道文庫」に一括買い取られていたものが、戦後慶応義塾大学附属研究所の「斯道文庫」に寄贈されて、同所において管理活用されている。 「濱野文庫」の特色は、和漢古書等と明治以降の研究書とが均衡を保っていること、中でも江戸時代儒者の自筆稿本、書入本、未刊写本が多いこと等であるが、その圧巻は、江戸後期、古注校勘学の大家、松崎慊堂(まつざき・こうどう)の関係書が、網羅されていることである。 森鴎外との交流 (出典4) 明治の文豪森鴎外には、『伊澤蘭軒』、『北條霞亭』に代表される数々の史伝小説がある。 まず、この成立に大いに関係する濱野と鴎外の交流は、大正5年(1916年)9月中旬に、太田孟昌(太田全斎の長子昌太郎)の出自を、阿部家所蔵の太田家由緒書などによって考証し、鴎外に通知したのが始まりである。 これに対する9月24日付の礼状で鴎外は、 「太田孟昌ニ関スル御考証並ニ茶山江戸往友ノ件御教示下サレ忝(かたじけな)ク存ジ奉リ候。トカクワカラヌ事ダラケニテ困却仕リ居リ候・・・・」 といっている。 ちなみに鴎外が発信した全書簡のうち、森家親族関係を除くと濱野宛68通は、3番目に多い。 また書簡の宛書きを見ると、はじめは「濱野知三郎様」と記されていたものが、やがて「濱野学兄」となり、終りごろには「穆軒先生侍史」と変っていて、あたかも鴎外の信頼の高さを物語るかのようである。 ちなみに穆軒とは知三郎の青年時代からの雅号で、穆は「おだやかで美しい」を意味している。 知三郎の蔵書印にも「穆如山荘(穆トシテ山荘ノ如シ)」と刻まれている。 鴎外は『伊澤蘭軒』の中で31回も知三郎の労に謝しており、さらに『北條霞亭』の中では81回に及んでいる。 ついで、知三郎の貢献は鴎外に「霞亭宛書簡」を貸与し解読を手助けしたことである。 この書簡はもともと神辺在高橋洗蔵氏の所蔵のものである。 高橋氏は北條悔堂(霞亭の嗣子)の二男で、高橋家を継いだ人である。 知三郎は20歳前後で神辺に寄留していた時、高橋氏に親炙して霞亭についての話をいろいろ聞いていた縁から、多くの「霞亭宛書簡」を謄写提供し得たのである。 さらに、貸与提供した書籍として、北條霞亭の『嵯峨樵歌』をはじめ、菅茶山、伊澤蘭軒、太田全斎、門田朴斎、浅川楝軒、五弓雪窓などのものがある。 『以上、生前においては真摯誠実な教育者・研究者であり、没後においても、永く後進を裨益する遺産を残されるなど、我が同窓会の誇る偉大なる大先達である。』 (出典4) 『昭和16年(1941年)10月5日、東京三楽病院で逝去した。享年72歳。』 (出典4) 『また、知三郎には岡山県津山中学校在勤中の明治36年(1903年)から亡くなる昭和16年(1941年)まで[大正11年を除く]までの日記38冊があり、後年濱野家から知三郎が長年勤務した湯島聖堂斯文会に寄贈された。』 (出典1) |
編 著 書 | |||
書 名 | 発行所 | 発行年 | 備 考 |
『抄註平家物語』 | 至誠堂/寶文舘 | 明治42年 | − |
『ポケット論語註釈』 | 至誠堂/寶文舘 | 明治43年 | 奥村恒次郎共著 |
『新訳孟子(附索引)』 | 至誠堂 | 明治44年 | − |
『新譯漢和大辞典』 | 六合館 | 明治45年 | − |
『和漢雅俗いろは辞典』 | 六合館 | 大正2年 | 高橋五郎著、濱野補訂 |
『漢呉音図七種本』 | − | 大正4年 | − |
『書大典』 | − | 大正6年 | − |
『抄註源平盛衰記』 | 石塚松雲堂/富田文陽堂 | 大正13年 | − |
『國書解題』の増訂(叢書目録を加える) | − | 大正15年 | − |
『増訂国書解題(第1巻〜第12巻)』 | 林平書店/吉川弘文館 | 大正15年 | 佐村八郎共編著 |
『日本芸林叢書』 | − | 昭和2〜4年 | 池田四郎次郎・三村清三郎共撰 |
『日本叢書目録』 | 六合館 | 昭和2年 | − |
『抄註太平記』 | 前田文進堂 | 昭和6年 | − |
『慊堂日歴』 | 六合館 | 昭和7年 | 松崎慊堂著、濱野編 |
『新譯大学中庸神農本草(序録、上巻、中巻、下巻、攷異)』 | 文祥堂書店 | 昭和8年 | 森立之著、濱野校訂、原本=嘉永7年刊 |
『王陽明先生年譜』 | 斯文社 | 昭和11年 | − |
『増訂国書解題(第1巻〜第12巻)』≪覆刻版≫ | 鳳出版 | 昭和47年 | 佐村八郎共編著 |
『ポケット大学中庸註釈』 | − | − | − |
写真提供:濱野恒雄氏 |
出典1:「濱野家過去帳、戸籍謄本(複数)、自筆履歴書(複数)など[嫡孫濱野恒雄氏提供]」・・・濱野恒雄氏の文章を参考にした 出典2:『備後備中先覚者名鑑 郷土を創った人々(上巻)』、式見静夫編、備後文化出版社刊、昭和36年8月 出典3:『福山学生会雑誌(第93号)』、追悼録1頁、福山学生会事務所編刊、昭和16年12月5日 出典4:『誠之館同窓会報・創刊号』、30〜31頁、「偉大なる蒐書・考証学者 福田禄太郎 濱野知三郎 両先生」、森田雅一、福山誠之館同窓会編刊、1994年5月15日 |
関連情報:『福山学生会雑誌』、福山学生会事務所編刊 1:第48号、附21頁、「郷賢碑文集」(3名分)、濱野知三郎編、大正5年7月27日 2:第49号、附27頁、「郷賢碑文集(其二)」(4名分)、濱野知三郎編、大正5年11月5日 3:第50号、附7頁、「郷賢碑文集(其三)」(5名分)、濱野知三郎編、大正6年1月1日 4:第50号、23頁、「堀程一郎先生を偲ぶ」、濱野知三郎、大正6年1月1日 5:第51号、附15頁、「郷賢碑文集(其四)」(9名分)、濱野知三郎編、大正6年5月31日 6:第53号、附5頁、「郷賢碑文集(其五)」(2名分)、濱野知三郎編、大正7年7月3日 7:第54号、附3頁、「郷賢碑文集(其六)」(7名分)、濱野知三郎編、大正8年6月7日 |
2004年10月6日更新:本文追加、経歴など修正ほか●2005年1月11日更新●2005年4月18日更新:経歴・著書●2005年5月24日更新:氏名●2006年3月2日更新:本文●2006年6月28日更新:タイトル●2008年7月22日更新:経歴・関連情報●2008年7月23日更新:経歴・本文・出典・関連情報●2008年10月17日更新:氏名・関連情報●2008年10月20日更新:写真・経歴・本文●2008年10月22日更新:経歴●2008年10月30日更新:経歴・本文●2008年10月31日更新:本文・関連情報●2008年11月6日更新:本文●2017年1月12日更新:経歴・生い立ちと学業業績● |