福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
五弓雪窓
五弓久文
ごきゅう・せっそう ごきゅう・ひさふみ
国学者、歴史学者、藩校誠之館教授
五弓雪窓[五弓久文] (出典1)


経 歴
生:文政6年(1823年)1月24日、備後国芦田郡府中市村(現広島県府中市)生まれ
没:明治19年(1886年)1月17日、享年64歳
幼少の頃より医師木村楓窓に句読を受ける
小寺清之に国学を学ぶ
天保5年(1834年) 11歳 失明した父に代わって神事を行い始める
天保9年(1838年) 15歳 後藤松陰の塾に入門する
広瀬旭窓の塾に入門する
天保12年(1841年) 19歳 江戸・柳原藩邸において齊藤拙堂に学ぶ
昌平黌・依田匠里に学ぶ
弘化2年(1845年) 23歳 帰国
弘化2年(1845年) 23歳 伊勢において齊藤拙堂にあう
弘化2年(1845年) 23歳 大坂において篠崎小竹にあう
弘化4年(1847年)3月 25歳 林培齋[林述齋三男]に入門
林復齋(梧南)[林述齋四男]の塾に移り、その嗣子鶯溪と学業に励む
下総国飯沼弘経寺において生徒を教授する
安政3年(1856年) 33歳 病のため帰国
文久3年(1863年)4月9日 40歳 福山藩に出仕(二人扶持)、藩学誠之館教授
40俵三人扶持で士族に列する、御目見得格
慶応3年(1867年) 44歳 窮民を救恤
明治元年(1868年) 45歳 福山藩より神社取調の命あり
明治2年(1869年)11月17日 46歳 藩学誠之館の分校府中郷黌を府中市村に設け、教授となる
明治5年(1872年) 49歳 家塾晩香館を開く
明治5年(1872年)11月 49歳 小田県郷社甘南備神社祠官
明治7年(1874年)2月 51歳 文部省史官
明治7年(1874年)7月 51歳 太政官修史局に奉職
明治8年(1875年) 52歳 御用掛
三等協修
明治14年(1881年) 58歳 40余年かけて『事実文編』を完成
昭和3年(1928年)11月 従五位を追贈される


生い立ちと学業、業績
文政6年(1823年)正月、備後国芦田郡府中市村(現広島県府中市)において、父五弓久範の長男に生まれた。家は代々羽中八幡社の神職であった。その祖先は藤原氏で、禁中に奉仕して弓の製作にかかわったために五弓と名乗ったという。名は久文(ひさふみ)、字は士憲・子憲、豊太郎はその通称である。雅号として雪窓、迂樵、清之舎、陶癖、偏愛菊道人、晩香山人がある。母は小池氏。

雪窓は幼少の頃より漢文を学び、のち
小寺清之に国学を学ぶ。若年の頃より父・久範に従って神事を務めていたが、13歳の時、父は両眼を失明したので、幼弱ながら父に代わって神事を行うようになった。しかし向学心の篤い雪窓は、天保9年(1838年)17歳の時、弟久紀に神務を託し、大坂の後藤松陰の塾に入門した。その後、広瀬旭窓の塾に移り、天保12年(1841年)には江戸に行き斎藤拙堂の門に入る。さらに昌平黌に学び、学業は大いに進み、特に史学をもって名があった。

その後は塾を転じ、さらには下総国飯沼弘経寺の僧・梅癡の招きにより、生徒を教授すること数年、安政3年(1856年)病を得て帰国した。

文久3年(1863年)には福山藩の招聘により、二人扶持で毎月6日間、藩学誠之館教授になった。のち40俵三人扶持を加増され士籍に列せられた。

慶応3年(1867年)旱魃と、さらに蝗害のため五穀が実らず、貧民の窮乏を見るに忍びず、氏は村内の富豪を説いてこれを救恤した。延藤吉兵衛など18人は、金を出してこれに応じたので、藩の許可を得て府中出口の各町を回り分配した。その金は19貫83匁5分、救済人員は実に2284人に達し、窮民は感泣してこれを受け、飢餓を免れた。

明治2年(1869年)11月、誠之館の分校府中郷黌の設置により、この教授となる。明治5年(1872年)、学制の発布により小学校となるのに伴い分校を辞め、家塾晩香館
(ばんこうかん)を開いた。
 明治7年(1874年)、文部省の要請に応じ史官となり、太政官修史局に奉職した。翌明治8年(1875年)御用掛となり、ついで三等協修に任ぜられたが、病に罹り職を辞し帰郷し、専ら晩香館において英才教育に従事した。中等教育機関のなかった当時としては、晩香館の名声はたちまち遠近に伝えられ、笈を負うて来たり、学ぶ者実に千人になんとし、その門から多数の学者・教育家・中央地方の政治家・行政家・軍人などを輩出している。

五弓雪窓は、日本近世伝記資料を調査し集成した大著『事実文編』を著作、近世史伝研究の大宝庫樹立をもたらした。明治19年(1886年)に亡くなるまで、雪窓は終生著述に打ち込んだ。別記のとおり40種、三百数十巻の史書を編述した。これを太政官および宮内教部に献納し、諸侯に贈呈し、また刊行して学界に裨益したのは偉大である。これらは不朽の名著として残っており、現在は関西大学図書館五弓文庫に所蔵されている。特に『事実文編』は伝記集で、諸家の文集・雑著の中から、文亀年間より明治年間に及ぶ各層の人物約1900人の伝記に関する部分を抜粋したもので、天保12年(1841年)19歳で江戸遊学の年に着手してから40余年、明治14年(1881年)に大成したという。

別に羽中八幡文庫を設けて修学の資に供し、図書館の端を開いた。

明治19年(1886年)病没、享年63歳。

五弓雪窓墓碣は、明治44年(1911年)12月17日府中市立東小学校校庭の西に建碑された。碑文は友人であった近江の中村鼎吾(彝)、篆額は旧福山藩主・
阿部正桓伯、書は同じく旧福山藩士・五十川訊堂である。五弓雪窓の墓碑(府中市史跡)は、府中市見晴町の会館前にある。墓名「五弓久文大人命之墓」。裏面に「明治十九年丙戌一月十七日歿」とある。

昭和3年(1928年)11月の御大典に際し、生前の勲功により特旨を以て従五位を追贈せられた。


誠之館所蔵品
管理 氏  名 名  称 発行所 発行日
00148 五弓雪窓 書 和歌「日本の」
00263 五弓雪窓 著 和本『三備史略(巻一、二、三)』 高尾佐一 明治27年


探しています
名  称 発行所 発行日 コメント
『事実文編(117巻)』 明治14年 伝記集
『正統神史(24巻)』
『文恭公実録(4巻)』
『史補(4巻)』
『客窓訳史(1巻)』
『星巌年譜(1巻)』
『正續存聊文草(8巻)』
『蕉陰茗話(3巻)』
『負暄閑談(3巻)』
『蒹玉相倚(3巻)』
『史屑』
『温史摘評(3巻)』
『外史糾謬(1巻)』
『政記存疑(1巻)』
『編修国史類纂』
『吉田家譜』
『楽翁公行実(1巻)』
『晩香館史論(1巻)』
『晩香館文稿(20巻)』
『宋元通鑑摘評(1巻)』
『村居独語(3巻)』
『迂樵迂言(3巻)』
『正續雪窓小稿(8巻)』
『歴代一覧(1巻)』
『福山管内地理略(1巻)』
『神史資料(3巻)』
『神社祭由書(2巻)』
『修史采ロク書目(3巻)』
『羽中文庫書目解題(5巻)』
『神主考(1巻)』
『晩香館日誌(10巻)』
『古今著述標目(3巻)』
『津逮餘筆(23巻)』
『蜻州詩史(9巻)』
『求友編(4巻)』
『續南木誌(1巻)』
『六國史ロク要(5巻)』
『景賢録(3巻)』
『必讀書題言彙纂(9巻)』
『大和魂(1巻)』
『晩香館筆叢(13巻)』


出典1:『図説 福山・府中の歴史』、209頁、郷土出版社編刊、2004年7月22日
出典2:『備後先覚者名鑑(郷土を創った人々)』、9頁、式見静夫編、備後文化出版社刊、昭和35年6月
出典3:『明治維新人名辞典』、394頁、日本歴史学会編、吉川弘文館刊、昭和56年9月10日
出典4:『福山学生会雑誌(第67号)』、24頁、福山学生会事務所編刊、昭和3年12月30日
出典5:『今昔物語 福山の歴史(下巻)』、113頁、村上正名著、歴史図書社刊、昭和53年12月15日
出典6:『大漢和(第6巻)』、238頁、諸橋轍次著、大修館書店刊、昭和32年12月15日
出典7:『国史大辞典(第11巻)』、686頁、国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館刊、平成2年9月30日
出典8:『府中人物誌』、74頁、「五弓雪窓」、楠務編、中国観光地誌社刊、昭和45年4月1日
出典9:『福山の今昔』、174頁、濱本鶴賓著、立石岩三郎刊、大正6年4月26日
2005年7月26日更新:レイアウト●2006年3月8日更新:本文・所蔵品●2006年6月23日更新:タイトル・所蔵品●2006年10月17日更新:経歴・本文●2006年11月8日更新:氏名・所蔵品●2007年1月17日更新:経歴・本文●2008年1月31日更新:経歴・本文●2008年3月12日更新:本文●2008年7月10日更新:経歴・本文・出典●2008年11月20日更新:経歴・本文・著書・誠之館所蔵品・出典●2009年7月15日更新:経歴●2009年12月28日更新:経歴・本文・著書・出典●2010年4月1日更新:本文・探しています・出典●