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教育家、郷土史研究家 | |||||||||
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経 歴 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:慶応2年(1866年)1月26日、福山市西霞町生まれ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:昭和6年(1931年)7月26日、享年66歳、福山市木之庄墓地に葬る | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 | ||||
福田禄太郎氏は慶応2年(1866年)1月26日、小学校訓導の福田新六保宗(ふくだ・しんろく・やすむね)氏の長子として生まれた。 本籍は福山西霞町293番地、諱は保和(やすかず)、通称は禄太郎といい、霽涯(せいがい)と号した。 母は佐原氏の光(みつ)である。福田家は代々の福山藩士で禄太郎氏は第11代となる。 明治7年(1874年)1月26日に福山西町下(しも)小学校に入学、小学下等科を卒業、明治12年(1879年)1月13日まで小学上等科第4級を修業した。 明治12年(1879年)2月15日、広島県立師範学校分校(福山師範学校)に入学、同校予備科の課程を修業中、明治12年(1879年)7月150日の同校閉鎖により自然退学となった。 明治12年(1879年)9月19日、その後身として新設された福山中学校(誠之館)に1回生として入学し、第8級・第7級の課程を終え、第6級在学中の明治14年(1881年)1月16日、中途退学した。 退学理由として、学籍簿には「疾病」と記入されているが、実際には府中・福山地区の小学校に傭教員・正教員として勤務しながら、多くの師について勉学するためだったらしい。 その後はつぎつぎに小学校の教員免許を獲得していった。 氏が入門した国文学漢学の師は、岡本友士(「私学思誠館」)、五弓雪窓、門田新六、門田重長、五十川訊堂(左武郎)など、いずれも当時の碩学であり、氏の国語・漢文の深い学識はこの時期に養われた。 そのほか、教職としての必要からか、数学を江間平一、英語を川又の両師に学んでいる。 明治36年(1903年)3月31日、母校福山中学校(誠之館)に教師として採用された。 明治12年(1879年)以降の本校出身教職員のうちで、もっとも早い修業生は福田禄太郎教諭である。 年齢は満37年2カ月、月俸20円であった。 明治45年(1912年)3月、試験検定により国語及び漢文科の中等教員免許状を得るとともに、教諭に昇格、昭和4年(1929年)5月25日の退職まで、通算26年1ケ月間本校に勤務した。 その間、漢文・国語・作文・習字などの科目を担当したが、深い学殖からにじみ出る正確明快な授業と謹直な人柄とによって、生徒にきわめて大きな影響を与えたことは、教えを受けたすべての卒業生の感想であった。 ある卒業生は、 「先生は地元の出身で、明治人の気質を残し、質素朴訥で独特の口調で、1年生には千字文の書道を、高学年には漢文を教えられた。」 といい、また 「先生は教室では、一切郷土史関係のことに就いては口外されなかった。・・・・まことに謙虚な文雅の師であった。」(藤井猛「福山中学の思い出」『懐古』所載)。 また、きわめて篤実な地方史研究家でもあった氏によって公表された労作は、「備後郷土史会副会長」として、その機関誌「備後史談」に発表した20数篇の論文・史料紹介と、大正13年(1924年)7月刊行の「阿部正弘伝」(分量104頁)および2篇の冊子にすぎなかった。 しかし未刊のものとしては、旧水野藩時代から阿部藩時代にかけての旧幕全時代にわたり、多くの学者・文人の詩文が、冊子類から断簡にいたるまで、ほとんどもれなく蒐集筆写されて、「福山文学」(第1〜7輯)、「福山誌」(第1〜2輯)、「郷賢遺誌」(第1〜11輯)として残されている。 このような膨大な史料の集積を行っていた氏に対して、当時、史伝の世界にふみこんでいた森鴎外から、やがて史料調査の依頼があるようになった。 鴎外は大正5年(1916年)1月から「渋江抽斎」の執筆をはじめ、それが終ると大正5年(1916年)6月25日から、抽斎の師「伊沢蘭軒」およびその一族の史伝を大阪毎日(東京日日)に連載しはじめた<大正6年(1917年)9月4日完了>。 その主人公および周辺の人物には福山藩に関係深いものが多かった。 鴎外は史料についての援助を「福山学生会」所属の浜野知三郎氏<福山中学校明治18年(1885年)入学>に求め、さらにその伝手(つて)から福田教諭と鴎外との交渉がはじまったのである。 この両者間には、数10回の書簡のやりとりがあり、また多くの史料の提供があった。 この往復書簡の存在を知った井伏鱒二氏<誠之館大正6年(1917年)卒>は、福田家に保存されている「鴎外の手紙」17通<書状13通、ハガキ4通、ほかにハガキ1通あり>の全文を、雑誌「新潮」<昭和42年(1967年)新年号>に発表した。 鴎外がその手紙の中で感謝している。 提供史料は、鵜川子醇(菅茶山の門人六如上人)、浅川棟軒(福山藩士1780〜1855)、太田孟昌(太田全斎の子)、平田玉蘊(尾道の女流画家)、江木鰐水、関藤藤陰、門田朴斎、河相周兵衛、門田久兵衛等の人物伝、菅茶山関係系図、『海内偉帖』(小野新四郎著)、『小野氏人名録』、『驥虻日記』、『門田朴斎藁詩』、『五弓文集』、『蓮陂著述二冊』、『福山学生会雑誌』等の著作物であり、「伊澤蘭軒」をよめば、鴎外がこれらをいかにたくみに利用しているかを指摘することは容易であろう。 なお井伏氏は、福山中学校在学中、門田重長(朴斎嗣子)、福田禄太郎両師に学び、福田禄太郎氏は門田先生に就いて漢文(唐宋八家文)・漢作文・和文(古今・万葉)を学んでいて、これら3氏の師弟関係は重層的であり、濃密な縁によって結ばれている。 福田教諭は晩年、広島県史蹟名勝天然記念物調査会常任委員として活躍。 昭和6年(1931年)7月26日没、享年66歳であった。 福山市木之庄墓地に葬られた。 (出典2)〜(出典5) |
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当時の住所:福山市西霞町293番地 |
誠之館所蔵品 | |||||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 | |||
03930 | 福田禄太郎 著 | 『阿部正弘公』 | 福田禄太郎 | 大正13年 | |||
03051 |
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『「阿部正弘公」とその著者霽涯福田禄太郎』 | 和田嘉郎 | 昭和61年 | |||
00364 | 福田禄太郎 著 | 『郷賢録』 | 福山城博物館友の会 | 平成12年 |
出典1:『福山の古写真集』、157頁、福山城博物館友の会編刊、2000年10月1日 出典2:『誠之館百三十年史(上巻)』、825・826頁、福山誠之館同窓会編刊、昭和63年12月1日 出典3:『「阿部正弘公」とその著者霽涯福田禄太郎』、151頁、福田禄太郎著、和田嘉郎編刊、昭和61年3月23日 出典4:『懐古 誠之館時代の思い出』、29頁、「福山中学の思い出」、藤井猛、福山誠之館同窓会編刊、昭和58年5月15日 出典5:『懐古 誠之館時代の思い出』、101頁、「中学時代の思い出」、神原利一、福山誠之館同窓会編刊、昭和58年5月15日 |
2004年10月28日更新:経歴●2005年2月4日更新●2005年4月8日更新:本文・出典●2005年8月26日更新:同窓会所蔵品を追加●2006年6月28日更新:タイトル・所蔵品●2007年7月19日更新:経歴●2008年1月16日更新:経歴・本文●2008年7月7日更新:経歴・出典●2008年7月8日更新:経歴●2009年7月2日更新:経歴・誠之館所蔵品● |