福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
江木鰐水
えぎ・がくすい
藩校誠之館教授、医者、福山藩儒官
江木鰐水
五十川家、江木家家系図


経 歴
生:文化7年(1810年)12月、安芸国豊田郡戸野村(現広島県東広島市河内町戸野)生まれ
没:明治14年(1881年)10月8日、享年72歳、東京谷中霊園に葬る
文化12年(1815年) 6歳 父を亡くす
文政6年(1823年) 14歳 医を志して、福山藩医・五十川菽斎の家に寄寓して修行
西条寺家村の野坂完山に師事
文政11年(1828年) 19歳 笠岡小寺塾で関藤藤陰と出会う
文政12年(1829年) 20歳 菽斎の娘道(のちに政)と結婚、江木家を再興
天保元年(1830年) 21歳 頼山陽の門に入る
天保2年(1831年) 22歳 頼山陽より晉戈と命名される
天保3年(1831年) 23歳 『山陽先生行状記』を撰する
天保4年(1833年)3月 24歳 篠崎小竹に師事
天保6年(1835年)3月 26歳 古賀侗庵に学び、のち塾頭となる
清水赤城に就いて長沼流の兵学を学ぶ
天保8年(1837年)4月 28歳 福山へ帰る
天保8年(1837年)11月5日 28歳 弘道館講書(五人扶持)
天保12年(1841年) 32歳 福山藩の儒官(十人扶持)となる、江戸在勤
弘化3年(1846年)11月21日 37歳 蘭学御用を内命される
嘉永3年(1850年) 41歳 軍者に任ぜられる
嘉永6年(1853年)12月19日 44歳 江戸出府(ペリー来航などに対応のため)
安政2年(1855年)1月16日 46歳 福山誠之館発会式において『論語』を講ずる
文久元年(1861年) 52歳 「誠之館之記」を撰文
元治元年(1864年) 55歳 第1次長州征討
慶応元年(1865年) 56歳 第2次長州征討
明治元年(1868年) 59歳 箱館の戦い
維新後 福山において治水利水と殖産計画の実現に力を尽くす
明治10年(1877年)1月 68歳 東京へ移住
明治12年(1879年)4月15日 70歳 浅草井生村楼において古稀寿筵を受ける


生い立ちと学業、業績
生い立ちと学業
名は戩
(ゆき)、字は晉戈(しんか)、諱は貞通、通称は繁太郎、号を鰐水・健斎・三鹿斎と称する

安芸国豊田郡戸野村(現広島県東広島市河内町戸野)の庄屋福原与曽八の、五人兄弟の第三子として生まれる。

はじめ医を志して、福山藩医・五十川菽斎
(いかがわ・しゅくさい)の家に寄寓して修行していた。
菽斎の曽祖父が水野家医員江木玄朴の女を娶っていたが、玄朴の歿後嗣が絶えていたので、
菽斎は鰐水を育てた上で、自分の娘道(のちに政)を鰐水に配し、江木家を再興させた。後にを後妻とした。

鰐水は、医術を喜ばず、
篠崎小竹に師事し、さらには、天保元年(1830年)に京都の頼山陽の門に入った。
頼山陽はその勉強を嘉みし尤もこれを愛した。
翌年山陽より、名を
(ゆき)字を晉戈(しんか)とするよう撰び与えられた。

天保3年山陽死去の後、『山陽先生行状記』を撰して文名一時にあがった。
その後、天保6年(1835年)、江戸昌平坂学問所において
古賀侗庵(こが・とうあん)に学んでその塾頭となる。
この頃の学友に「津田終吉(津田賁)」がいた。
兼ねて清水赤城に就いて長沼流の兵学を学んだ。
暇あれば漫遊して山川の脉理、古戦場を訪い、その利害を考究した。

業績

天保8年4月福山へ帰り、同天保8年11月、弘道館講書を命ぜられ五人扶持を支給されることになった。
天保12年(1841年)には、
阿部正弘に抜擢されて正式の儒官となり、十人扶持を賜わり、江戸在勤を命ぜられた。
その後の鰐水の出府は2回あるが、いずれも1~2年の短期にすぎなかった。
正弘の学制改革に対しては、積極的に献言した。
安政2年(1855年)1月16日の福山誠之館発会式には、記念の講釈として『論語』を講じた。
「誠之館之記」は氏の撰である。
誠之館においては、兵学講義を担当したが、長沼流が時勢に合わぬことを知って、訳書によって西洋兵学を講じ、兵制の改革を建白した。
福山藩に洋学が盛んに行われたのは、氏の力である。
嘉永年中、米使来航の際、多くの人は攘夷を主張したが、氏は海外の形勢を洞察し、独りその非を唱えた。

正弘の死後、
阿部正教阿部正方につかえ、第1次・第2次の長州征討、さらに箱館の戦いには、いずれも参謀として参戦し、功あって賞禄を賜わった。

自分の塾・久敬舎や藩校誠之館で「鶴田皓」など多くの弟子を育てた。

維新後は、明治政府から大学講師に聘せられたが就かず、福山にあって治水利水・殖産計画の実現に力をつくしたため、人は彼を「水狂い」とよんだ。

後妻の江木年に七男をもうけ、三男江木健吉が家を継いでいたが、早世のため四男
江木高遠が継いだ。
高遠は外交官として活躍していたが32歳のときニューヨークに客死したため、五男江木保男が継いだ。
これら鰐水の末裔のことについては、
「江木塔の写真師たち」が詳しい。

明治14年(1881年)10月8日、東京に没した。
享年72歳。東京谷中天王寺に葬られている。
墓碣銘は
三島中洲(三島毅)の撰。

著書に『仰高芳蹟』、『客窓漫録』、『山陽行状』、『孫子註』などがある。

「鰐水江木先生碑」
福山城西の先人の森に「鰐水江木先生碑」が建っている。
もともと明治27年(1894年)10月、福山城内へ
阿部正桓伯爵篆額、坂田警軒撰、五十川訊堂書によって建立されたものである。


誠之館所蔵品・展示品
管理№ 氏  名 名  称 制作/発行 日 付
t1360 山路機谷 編
江木鰐水 序
『未開牡丹詩』(抄) 白雪楼 安政3年(1856年)
00041 江木鰐水 書 七言絶句「矍鑠此翁」 安政5年(1858年)
00046 江木鰐水 画 「長沼澹斎肖像画」 安政5年(1858年)
00044 江木鰐水 撰 「誠之館之記」 文久元年(1861年)
t0940 江木鰐水 書 書「流水不腐」 明治5年
00136 江木鰐水 書 七言絶句「冬暁(残月半竿)」 明治6年ごろ
00043 江木鰐水 書 箴言一則「踏実地」 明治12年
00042 江木鰐水 書 七言絶句「秋蝶(偸香曽是)」
00139 江木鰐水 書 七言絶句「錦装欺賊」
05309 江木鰐水 書 五言絶句「瑞草児青大」
05310 江木鰐水 書 七言絶句「錦装欺賊」
07008 江木鰐水 書 書「流水不腐」
t1150 江木鰐水 書 和歌「壽らすらと」
02381 江木鰐水 着用 「烏帽子」
02383 江木鰐水 着用 「陣羽織」
02384 江木鰐水 着用 「馬具[轡]」
00032 頼山陽 江木晋戈命名書 天保2年(1831年)
00121 津田終吉(津田賁) 漢詩「鰐水送別」 天保8年(1837年)か
00107 佐倉孫三 書「奉壽江木鰐水翁七十」 明治12年
00030 頼山陽 自筆謄写「史記」
00031 頼山陽 図解「左伝(二首六身)」
00051 柳彰 「江木鰐水夫人(江木年)像」
00304 江木鰐水 著
東京大学史料編纂所 編
『大日本古記録 江木鰐水日記(上下)』 岩波書店 昭和29年
昭和31年
04396 安藤英男 編 『頼山陽品行論』 近藤出版社 昭和56年
06813 見延典子 著 『敗れざる幕末(小説:福山藩儒者・関藤藤陰)』 徳間書店 平成24年
06882 福原啓二 著 『廣島に残った毛利一族の系譜 安芸国豊田郡戸野村福原氏解題』 一粒書房 平成25年
06883 福原啓二 著 CD「廣島に残った毛利一族の系譜 安芸国豊田郡戸野村福原氏解題」 福原啓二 平成25年


出典1:『誠之館百三十年史(上巻)』、20・23・65・104・107・112・119・163・169・196・217・346・350・352・502・522・565・706・741・827・1058、福山誠之館同窓会編刊、昭和63年12月1日
出典2:『誠之館記念館所蔵品図録』、64頁、福山誠之館同窓会編刊、平成5年3月23日
出典3:『備後先覚者名鑑(郷土を創った人々)』、4頁、式見静夫編、備後文化出版社刊、昭和35年6月
出典4:『菅茶山顕彰会会報(第14号)』、18頁、菅茶山先生遺芳顕彰会編刊、2004年3月1日
出典5:『全国の伝承江戸時代 人づくり風土記34 ふるさとの人と知恵 広島』、318頁、農山漁村文化協会編刊、1991年3月25日
出典6:『今昔物語 福山の歴史(上巻)』、215頁、村上正名著、歴史図書社刊、昭和53年11月20日
出典7:『福山の今昔』、169頁、濱本鶴賓著、立石岩三郎刊、大正6年4月26日
出典8:『福山の碑』、82頁、「鰐水江木先生碑」、三上勝康著、福山市文化財協会刊、昭和50年11月10日
関連情報1:『福山学生会雑誌(第48号)』、附25頁、「鰐水江木先生墓喝銘」、三島毅、福山学生会事務所編刊、大正5年7月27日
関連情報2:『福山学生会雑誌(第49号)』、附21頁、「碩儒江木鰐水先生国防建白書稿寫」、川崎宗則、福山学生会事務所編刊、大正5年11月5日
関連情報3:『備後人物風土記-歴史をつくった人々-』、339頁、村上正名著、歴史図書社刊、昭和52年10月31日
関連情報4:『研究紀要(第22号)』、19頁、「鰐水江木先生碑おぼえ書」、和田嘉郎著、広島県高等学校社会科教育研究協議会編刊、1986年
2004年10月21日更新●2005年3月24日更新:経歴・本文・出典●2006年2月24日更新:所蔵品●2006年6月16日更新:タイトル・所蔵品●2007年5月18日更新:関連情報●2007年9月7日更新:関連情報●2007年9月11日更新:関連情報●2007年9月13日更新:経歴・出典●2007年9月26日更新:経歴・本文●2008年1月23日更新:本文・関連情報●2008年1月24日更新:経歴●2008年7月23日更新:本文・出典・関連情報●2008年7月25日更新:関連情報●2008年11月5日更新:誠之館所蔵品●2008年11月14日更新:経歴・誠之館所蔵品・出典●2008年12月1日更新:関連情報●2009年1月7日更新:誠之館所蔵品●2009年1月9日更新:誠之館所蔵品●2009年2月9日更新:本文・誠之館所蔵品●2010年3月31日更新:出典●2011年11月14日更新:本文●2012年3月1日更新:本文・出典●2012年6月20日更新:誠之館所蔵品●2013年10月3日更新:誠之館所蔵品●2013年10月23日更新:関連情報●2013年11月30日更新:誠之館所蔵品展示品●2014年10月23日更新:本文・誠之館所蔵品展示品●2014年11月8日更新:誠之館所蔵品展示品●2015年7月7日更新:誠之館所蔵品展示品●2015年8月6日更新:本文●2015年9月28日更新:経歴●2015年10月6日更新:誠之館所蔵品展示品●2016年2月10日更新:誠之館所蔵品展示品●