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医師、医史学者 | |||||||||
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経 歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
生:大正8年(1919年)、広島県沼隈郡福山市松永町生まれ | |||||||||||||||||||||||||||||||||
没:平成18年(2006年)6月18日、享年86歳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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江川義雄先生 岩崎博 (昭和19年卒) |
先生のライフワークである『廣島縣医人傳(広島県医人伝)』は、第1集が昭和61年刊行、第2集は平成元年、第3集は平成14年の刊行というきわめて長期にわたる労作で、従来断片的にしか知られていなかった江戸期以来の県内医人たちの業績を広く集大成されている。 また備後地区についても藤井好直、森枳園(森立之)、窪田次郎、清水郁太郎、永井潜、佐沢太郎、寺地強平、平川良坪、吉田龍蔵など誠之館関連医人について詳記されている。 また広島県において県医史学会の発足と発展に尽くされた功績は大きい。 更に誠之館歴史資料室発足に際しては、ご所蔵の貴重な関連医人資料から多数の当資料室関連資料をご寄贈頂いた。 |
「福山誠之館と医学史」 江川義雄(昭和12年卒学年) |
筆者は入学試験を霞町の旧校舎(大正3年竣工)で受け田舎育ちの少年には、藩校のシンボルである堂々たる玄関に威圧された。 入学した校舎の玄関は三吉町にあった師範学校に移築され、一室を設け誠之館記念館として保存された。 戦後、昭和44年には現在地の木之庄町に再度の移転が行われ、今日に及んでいる。 私は、岡山医大の高学年頃より医史に関心を持ちはじめ、復員後は広島の農協佐伯病院に勤務し、そこの副院長、石田憲吾先生の薫陶指導を受け郷土における医史研究に意欲をもつ契機となった。 それは単に芸備地方的な医学歴史研究ではなく、それらの関連、近隣文化圏への伝播・波及が必然的に影響し合ったものであり、近隣地区・全日本・蘭・独・英などの外国にも関係し、従って研究効果は仲々結実せず、未完成に終るような意識を自覚するに至った。 医学の歴史を研究してゆくうちに、脚下を看ると、広島県は、この学会の創立・活動・成果につき特筆すべき業績を残してきたことを知った。 維新前より日本の各地に於て先駆的人物が現われて、郷土の先哲として、史上に名を残す人も少なくない。 その人物達の輩出の時代的背景、歴史的な流れの中で文化史の上から総合的に観察し、体系化しようとする運動は見られなかった。 幸いにして広島県では、西部地区である広島において、先人の偉業を讃え、その歴史的影響について攻究する人物が現われた。 その気運は次第に波及し、芸備の地から中央にと発展し、呉市出身の呉秀三、広島市出身の富士川游の交友らが中心となって医学の歴史研究と共に医学倫理高揚などをスローガンに掲げ全国の有志を募った。 日本医師会としてそれは第一分科会に登録された程であり、それから分科会活動の契機となった。 分科会活動にあっても、芸備地方の内容は広島の安芸地区と比較の研究をしてみると、東部地区の芸備を中心とする人と業績紹介は乏しいように思われ勝ちであるが、明治中期から呉・広島出身の医師が中心となっての活動が活発であるので、東部地域の研究は少なく、幕末維新時には福山藩で有名な人達は藩主に随行し、上京し、帰郷することは殆どといってよい程少なく、福山藩は筆頭老中阿部氏の下にあって、福山誠之館の学統を継ぎ、福山に居住して活躍していれば、医学のみならず他の文化的発展に寄与したであろうし、期待したものが多かったと思うのである。 それに比すると西部の修道館には既述の二人、呉・富士川の行動は在京していても度々帰郷し在広の後輩連中を指導、励ます愛郷心が強かったように感ぜられる。 従って先人を尊敬し好学的伝統を定着させるのに効果を与えたといえよう。 その伝統は現代にも持続されている。 福山では医史にその名を残す先人があっても、既述の要因から意外にも知られていない。 医師の編纂した資料にも、広島を凌駕する内容が乏しいのも寂しいことである。 大袈裟にこの誌面で、東部の文化都市の中核と称す可き福山藩には、代表的活動の原点である藩校としての誠之館がある。 それに対比する西の文化の母胎となる広島藩を代表する修道館の動きを比較すると、二校とも現在は同一の行政領域となっているに過ぎないが、両藩校の校名と創設は次のようになる。 福山・弘道館 天明6年 江戸・誠之館 嘉永6年 福山・誠之館 安政元年 広島・修道館 明治3年 当地、備後・安芸地方のみならず、全国多少の差異はあっても在来の保守的なカリキュラムだけでは変貌する対外動向に追従出来ない国内事情が存在していたのである。 特に保守的国家主義政策を国是とした徹底した鎖国体制は史上類例のない厳しいものであった。 文化・学術面でも例外的に医学・天文学の門戸が自由化され、その制約も幕末になればなる程強化されてきたのである。 幕府政治の終焉時に近づけば、その傾向は強化されつゝあった。 その極端な事例はこれ迄医学全般に門戸が開放された分野も、眼科関係のみが許容される異常な体制をとるに至った。 その理由は日本人の当時の疾病頻度も発生率が高く、而も難治重症化失眼に至る発生率も高い社会医学事情によったものであろう。 この異常な体制の中にあって、福山藩は特別な事情にあった。 若くして徳川幕府の首座老中になったのは、福山阿部家第7代・阿部正弘で安政2年(1855年)であった。 この就任数年前の嘉永の初期より日本近海には外国船が出没する時代でまさに国難現わるであって、正弘は弱冠26才の時である。 彼の個人的背景については、同じ徳川氏に勢をもつ水戸の徳川斉昭があり、強い影響力を受け、国論の統一策として、対外的には攘夷派として活躍しなければならず、対外的には諸列強国の来航による通商の強要或いは侵攻、例えばアメリカの琉球来航、オランダの開国要求、ペリーの来航、ロシア極東艦隊長崎来航、日仏修好通商条約、日蘭修好通商条約などが次々と締結され、安政初めの国難と評すべき対外的苦悩は想像を絶するものがあったであろう。 このように国内外の大事件を小藩の福山藩が全日本を代表し立ふるまった藩臣たちの寺地強平・関藤藤陰の北洋・エトロフ島の視察は切羽詰った行動と解すべきであろう。 福山藩は禄高は低く、同じテリトリーに属する広島藩の高禄に比すれば、福山藩の挙国的見地では苦悩が余りにも深刻であった。 誠之館と修道館の相対的対比として、その学統面について観察すると『誠之館百三十年史(上巻)』、23頁から引用すると、阿部藩の学統については次のように述べられている。 阿部家第2代・伊勢守は好学の藩主であったが、直接の動機としては、享保4年(1719年)秋の朝鮮通信使来朝にあって、その接待のため、実力ある学者の招聘が必要であった。 阿部正福は京都古義学派の祖、伊藤仁斎にはかり、その第二子・伊藤重蔵(諱長英、号梅宇)を取次格30人扶持でまねき、鞆の浦における応接の任にあたらせるとともに、その後は阿部家最初の儒者として重用した。 これ以後、重蔵の子孫が福山藩の儒者本役を世襲し、藩主以下諸士の教育に任じた。その第8代伊藤揚蔵(諱良元、号芦西・竹塘)が安政5年(1858年)、誠之館教授となってきたのである。 一方、広島藩浅野家の学統といえば、福山の阿部家と同学といってよい程の流れとなっている。 江川の「堀杏庵とその一族」の論文によれば、徳川家康の師は藤原惺窩で徳川幕府の官学、京学を樹立した学者であり、開祖的な学者でもあり、且つ医学にも理解ある人物で、その門下には堀杏庵・林羅山・松永尺五・那波活所が藤門の四天王と称せられ、堀杏庵と林羅山は終生の友と言われた程の交友があり、師の藤原惺窩が紀州藩主の浅野紀伊守幸長に召され、和歌山へ行くのに堀杏庵は同道した。 慶長16年(1611年)、杏庵が26才の時、師の惺窩は高齢の為、彼の推挙により藩主の侍医となった。 浅野幸長の子、浅野但馬守長晟が元和5年(1619年)5月に移封の際、堀杏庵は36才で侍医として召し抱えられている。 寛永13年(1636年)12月、朝鮮三使来朝し、堀杏庵は命うけて石大拙博士と筆答している。 大拙は杏庵の文をみて大いに感心し、杏庵は博学強記で文苑の老将であると評した程であるし、また杏庵の友、石川丈山を芸藩に招聘させている。 彼は徳川家康の側臣で、元和9年(1623年)、藩主長晟より二千石の高禄をうけ、杏庵と共に学統気節を学び伝えた重要な人物で、晩年は両人京都に隠居し、文雅風流酒交の楽しみを共にした。 このように阿部・浅野の両藩に於ける為政方針の基本的な方針は相似し、医育体制、対外諸政策については、夫々の考え方や活動が見られ、文教の美風を興し、維新後もその伝統がみられる。 近世の日本を通じ、又徳川幕府から維新前期の僅かの時代に、歴史年表を開けば、よくもこれだけの国際的課題に対処して来たものと感心せざるをえない。 幕藩体制が江戸幕府の存立、維持に大きい意義をもち、各藩の孤立性を持たせ、たとえ隣国に位置しても充分な交流があるとはいえなかった。 幕藩体制の指導理念は京学に基き藤原惺窩一門の儒学思想に統一され、殊にキリスト教、信仰の弾圧は、日本の近代社会の開幕として、国際性があり、これ迄経験しなかった洗礼を受けた。 誠之館、修道館の両者共幕府に親しい関係にあり、学問の展開にしても、大筋に於て著しい変化はなく、寧ろ末期に至れば両者の指導者は、誠之館では江木鰐水が安芸出身であり、修道館では備中美星町出身で、郷校興譲館の督学として迎えられた寺地強平がいる。(福山城公園に「舟里寺地先生碑」が建立されている。) 福山の阿部正弘は幕府の老中首座にあった立場上、洋学体系に対する憧れは強力であっても立場上、これまでの幕政の保守的体質を全面的に改革することは困難であり、それに列強諸国の日本への通商・修交の脅迫が繰返され、当時の最高責任者としては、内に対しては、国内的には伝統的な鎖国閉鎖的体制の維持、対外的には鎖国政策の限界となり、侵略的国交締結を強要する外国勢力に対抗する為に、諸国に軍備増強、沿岸防備の為に軍備の近代化を命じ、緒方洪庵門下で蘭学を学習して福山に帰った寺地強平は医学でなく、火砲学などの翻訳をしたり、福山藩の友、関藤藤陰と共にエトロフ・国後島の視察した史実は当時日本のおかれた情勢を知る上に大切な事件と言う可きであろう。 阿部正弘は個人的には洋学又は欧州文明に対しての憧れを有していたが水戸斉昭をはじめ幕府に忠誠を誓う武士階級に対しての配慮から攘夷体制を否定する国内事情ではなく、その思想・経済・政治全般にわたり社会的にも崩壊前夜を思わせ、福山藩の重責は広島藩内発生の史的紛争事件とは規模の質・量において比較にならないものであったし、人心を鎮静・教育する必要に迫られたと想像するものである。 その観点から一般的に余り知られてない福山藩に独自な事業の一つを次に紹介したい。 安政版「医心方」の刊行について。この書名については、古来読書人には熟知の有名な医学叢書である。 発行から今年迄(平成16年)1020年の年を迎えた日本最古の医学叢書であり、宮中に秘蔵され、一般に開放されることなく、しかし医心方30巻の中の第28巻、房内篇は性典的内容である故に、発禁本といっても、民間に僅かに出版され、今日でも古書店に稀に見ることがある。 従って一般にはこの叢書は中国古典医学の貴重な文献にも拘らず、誤まられたイメージで理解されて来たし、容易に入手出来ず、その原本内容は解釈に難しいのが定評であった。 特に第1巻の序説篇は中国古代思想や理論が入り単に医学知識のみでは完訳できず、随・唐時代に遡っての膨大な中国書に対する実力をもった学者と一体となった翻訳力がないと到底解釈することは困難だという曰くつきの内容である。 手をつけられなかった事にもよるであろう本書の入手・所蔵場所・各家蔵本版の所有については、それなりの解説書を要するであろう。 徳川幕府の医療の責任者は代々丹後康頼から世襲の多紀家にあった。 本書の撰述の初めから終迄の変遷はこれまた物語にもなる劇的なものであり、幕府沈壊が進行しつゝある際に、一つは外来医学に在学の漢方医学が優越している様をみせる虚勢もあり莫大な費用を投入し製作スタッフにも、この書の発行編纂の目的を徹底させ、祈りを込めて真剣な条件・環境の中で、各分担者は作業が進められたのである。 現在の印刷事情と大いに異なるころであった。 複製といっても版木に一字一字彫り込んでの作業であって、よくも短時日で完了したものだと感心する。 しかもその版木たるや戦災によって煙滅し、完全な姿を求めることは出来ない。 今日、安政版として世に現われたのは、安政元年(1854年)12月14日に、代表責任者の多紀元堅、多紀元 で医学館では侍医・医学校教諭法眼・喜多村、副医学校教諭兼教務・多紀元佶、外藩医官医学助教・舟橋玄拉、医学助教・多紀元 、外藩直医学助教・小島尚真が名を連ね、副援助として権充医学講書医生・渋江があり、既述者の役割・活動については、筆者には不明であるが、福山藩医員として次の人達があげられている。 一人は伊沢信道で権充医学講書で、いま一人は森立之である。 立之が42才の時である。 その他に福山藩で立之の師である高名な渋江全善・堀川舟庵、それに、この医心方安政版の底本となった半井家本の持出しの折衝役は阿部藩主の公用人の渡辺三太平により進められ、これ迄に散逸していた医心方が全巻揃うことになり、関係者13名は狂喜雀躍したと、立之の詩文に「自づから狂わんと欲す」と表現し詠っており、立之の息子の約之はこの書が世に出た功績は卯年生れ3人の力と評した。 その1は阿部正弘で文政己卯生まれで36才、その2は多紀元堅で寛政乙卯生まれの60才、その3は森立之で文化丁卯生まれの48才だと評し、この事業は崩壊寸前の医学館が果たした最高最後の業績と言われている。 本書刊行の顛末記と称すべき覚え書「医心方提要」として立之は入念に記録、これを保存していた。 幕府侍医法眼の喜多村直寛は、写生30人に作業心得15条を掲げている。 条文の中には斎戒沐浴、最初の撰述者・丹波康頼の霊前に香花を供え、朝夕霊前に礼拝し、書写中は猥談・雑談を禁じ、注意事項は作業全般に亘り、各巻の担当者名が掲げられ、立之も4巻ほど名を連ねている。 模写の作業は大変であったが1ヶ月足らずで終了し、版木を刻む7人の刻工が取組み、安政6年(1859年)5月版木が出来上り伊沢柏軒と立之の連名で関係者に回覧校閲され、12月には立之のもとに試刷が届けられ、それから印刷・製本の工程となり、大変な手間と苦労が偲ばれる。 なお博学の立之は明治3年(1870年)には誠之館の教育書に『皇国地理略』を書いており、それは日本で初めての書もつといわれている。医心方の復刻出版祝賀の嘉永7年(1854年)にはその関係者は森立之一人のみ生き残った感慨を次のように詠んだ。 月更けて独りになりぬ花の下 それから約1世紀半、本書は世間に流行せず、昭和48年(1973年)11月20日に、安政版を底本として30巻が日本古医学資センター(理事長・東舜英)から刊行された。 丁度時もよし、広島市では漢方医学研究会が発足(会長・小川新)し、東洋医学の原典となる文献の研究会を始める事になり、本書をそのテキストに選んだのである。 第1巻・序論は聞きしに勝る難文、辞書にない古典漢字も使用され、漢籍に通じている研究者と雖も正しく判読する事は不充分であることが解った。研究者は医師・薬剤師・ジャーナリスト・学生を入れ20名、週2回の研究会であって、そのリーダーは古典中国文学の権威者である広大文学部の初男教授にお願いし、研究員一同学生時代にかえったムードであった。 医心方30巻をこの1年で現代訳に完訳しようとする当初の意気込みは、この難解な文章に対応するので、ひどい時には1行を訳すのに1回分の時間を要し、現代蘭学事始版だと評された程で、中には迷信的、非科学的な考え方も介在したかと思うと、思想的・宗教的・哲学的な考え方が字句にあり、その説明・理解は医学知識では歯の立たない分野も多々見受けられ、この会が総合的研究会であることに自信をもち誇りを抱いたものである。 読書界では世界的に見られる現象であるが、医心方現代版が講談社を通じ発売されると、その海賊版とも言うべき上海版でなく台湾本が日本の古書市場に現われた。 安政版復刻の現代版は 製本は美しく堅字であり、且つ高価であった。台湾版は菊版でお粗末であったが、研究員の学習用にはそれなりの効用があった。 この事業を完遂させる意欲に燃えたこの研究会リーダー格の三迫教授の高齢衰弱で、続編の翻訳作業は巻第1で中止せざるを得なかった。 千年の長きに亘り宮廷の秘本として有名有効な医書として秘蔵されていた叢書は日本存亡の時代に為政者の生命をかけての事業であった。 このような劇的な歴史的演出は阿部正弘や福山藩の文人に知られた秘話であり、日本の医史の上でも特筆さる可き史実である。 そしてその今日的意義は立派な叢書として再生され、日本のみならず、漢方医学を研究する医療関係者に未知の恩恵を教授するものである。 安政元年(1854年)の暮、福山霞町に藩校・誠之館は竣工したのであるが、当時日本はまさに内外共に未曾有の国難といってよく、1月16日、「ペリーが軍艦7隻を率い神奈川沖に来泊」を初めとし、ロシヤ・プチャーチンは3月23日長崎に入港、それからイギリス、オランダとの開港と列強との和親条約を結び、9月21日日露和親条約でエトロフ・ウルツ島を国境、樺太は両国雑居地と定めると年表にあるが、その視察を命ぜられたのが関藤藤陰、寺地強平で蘭学指導どころでなく専ら海防・軍備に集中せざるを得ない国際事情であったと思われる。 それは安政元年(1854年)12月23日のことであり、安政4年(1857年)阿部正弘は39才という若さで死没している。 しかし福山の誠之館は安政2年1月16日に発会式をしている。阿部老中首座の祈りにも似た学問に寄せたこの刊行は、それから118年の後に、即ち昭和50年(1975年)7月16日「医心方」を読む会が広島県医師会館で開催されたことになる。 それら毎会の講義録は雑誌『古医学月報』に掲載され、その大要総括されたものが、『医心方序説篇現代訳』298頁となって発行され、その原文も同じスタイルで158ページの内容となっている。 この両者を備えて、見事な体裁で書架を飾っている。 藩校として誠之館の命名は既述のように遅くなってくるが、誠之館の名を冠する人物・学舎は判然としてないが、藩医の福山藩の勤務地配分は初期において、江戸詰より地元福山の方が少し多数であり、明治2年(1869年)9月に福山藩により医学所・大病院は合併され、医学校兼病院と改称された。 校長は寺地強平であり、その門下である五十川基・小林義直・平川鴨里は教師となり、その肩書には誠之館名が附されている。 現在の学校名のように判然としていないようである。 学問所の名称が福山藩の誠之館、広島藩の修道館は古くない。 誠之館は安政2年(1855年)に設立され、修道館は文久3年(1863年)は国学のみならず、学習科目に洋学を加え、明治14年(1881年)に校長・山田養吉の下で、浅野学校より修道学校と改めた程である。 両者共に名称の変遷はあったにせよ、修学内容はきびしく、教師・医員も優秀な人材を配している。 維新となって一部の指導者は藩主に従い、江戸に移ったが、夫々の地域に学問的伝統は定着し、更なる発展を見ることが出来る。この様な歴史的事実より観察すれば、福山誠之館の潜在的文化性はこれからも再見され、発展すべきであることを祈らざるを得ない。 (出典1) |
誠之館所蔵品(江川義雄氏寄贈) | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 制作/発行 | 日 付 |
02971 | 永井潜 著 | 『生命論(増補3版)』 | 洛陽堂 | 大正4年 |
02972 | 永井潜 著 | 『生命論(13版)』 | 洛陽堂 | 大正9年 |
00366 | 永井潜 著 | 『道と自然』 | − | 昭和13年 |
02973 | 永井潜 著 | 『性教育』 | 雄山閣出版 | 昭和31年 |
00365 | 永井勇 著 | 『永井家系譜図』 | − | 平成2年 |
00379 | 県立広島病院 編 | 『創立百二十年記念誌 県立広島病院』 | − | 平成11年 |
00372 | 江川義雄 著 | 『廣島県醫人傳(広島県医人伝)全3集』 | − | 平成14年 |
探しています | |||
氏 名 | 書 名 | 制作/発行 | 日 付 |
江川義雄 著 | 『素晴しい青春−私たちの命と性を考えよう』 | 第一学習社 | 平成2年 |
江川義雄 著 | 『素晴しい青春−成長する心とからだ』 | 第一学習社 | 平成11年 |
江川義雄 著 | 『医事随想』 | − | − |
江川義雄 著 | 『性を考える』 | − | − |
江川義雄 著 | 『性教育と家族計画の指導指針』(共著) | − | − |
江川義雄 著 | 『性科学と郷土の先哲たち』 | − | − |
出典1:『誠之館創立百五十周年』、87頁、「福山誠之館と医学史」、江川義雄、福山誠之館同窓会編刊、平成17年2月 |
2005年3月2日更新:著書・寄贈本●2005年4月14日更新:経歴・著書●2005年7月5日更新:著書●2005年7月7日更新:本文・出典●2006年4月28日更新:タイトル・江川義雄氏寄贈本●2007年1月9日更新:経歴●2007年1月11日更新:経歴●2008年2月6日更新:経歴・本文●2008年2月22日更新:本文(興譲舘→興譲館)●2009年7月27日更新:経歴・誠之館所蔵品●2011年2月2日更新:本文● |