福山阿部藩
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関係者
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歴代役員
荒木茂久二
あらき・もくじ
運輸次官、帝都高速度交通営団総裁、福山誠之館東京同窓会顧問
荒木茂久二 (出典1)


経 歴
生:明治40年(1907年)7月25日、福山市引野町生まれ
没:平成3年(1991年)6月25日、享年85歳
大正14年(1925年)3月 18歳 広島県立福山中学校(誠之館)卒業
昭和3年(1928年)3月 21歳 第六高等学校卒業
昭和7年(1932年)3月 25歳 東京帝国大学法学部法律学科(英法)卒業
昭和7年(1932年)4月 25歳 鉄道省入省
昭和14年(1939年)2月 32歳 企画院調査官兼法制局参事官
昭和20年(1945年)8月 39歳 運輸省鉄道総局鉄道官
昭和21年(1946年)3月 39歳 運輸省東京鉄道局総務部長
昭和24年(1949年)6月 42歳 運輸省運輸大臣官房長
昭和27年(1952年)1月 45歳 運輸省鉄道監督局長
昭和27年(1952年)8月 46歳 運輸省航空局長
昭和30年(1955年)11月20日 47歳 三吉町誠之会館落成式において記念講演 (出典2)
昭和31年(1956年)2月 49歳 運輸省事務次官
昭和36年(1961年)1月 54歳 日本油槽船且ミ長
昭和39年(1964年)4月 57歳 昭和海運且ミ長
昭和45年(1970年)4月 63歳 帝都高速度交通営団総裁
昭和52年(1977年)11月3日 71歳 勲一等瑞宝章
昭和53年(1978年)8月 72歳 樺n下鉄ビルディング会長
昭和62年(1987年)2月 80歳 (財)日本交通文化協会会長
昭和62年(1987年)5月 80歳 (財)日本航空協会会長、(社)日本交通協会会長
平成3年(1991年)7月 85歳 従三位


略伝--荒木茂久二その時代と人脈
出生・少年時代
荒木茂久二は広島県福山市の農家の二男として明治40年(1907年)7月に生れた。
父は引野村村長(後に広島県会議員)荒木茂市、母ミト。

明治37・38年(1904・05年)戦役---ロシアとの戦争で日本が勝利し、アジアの強国として国際的地歩を固めた時代である。
やがて朝鮮半島に対して内政監督から併合へと進み京城に朝鮮総督府を設置した。それが明治43年(1910年)である。

茂久二が5歳の時に明治天皇が崩御、大正時代に入る。
同年第二次西園寺内閣瓦解の後をうけた第三次桂内閣は激しい「憲政擁護」運動によって在任50日で総辞職した。
「大正政変」といわれる。

大正3年(1914年)第一次世界大戦が始まり、大隈重信内閣はドイツに対し宣戦、日本陸海軍は中国山東省のドイツ軍基地---青島を攻略した。

大正7年(1918年)には国内では米騒動、対外的にはシベリア出兵などがあり、大正8年(1919年)ベルサイユ講和条約によって第一次世界大戦が終った。

茂久二が小学校から福山中学(誠之館)へ進んだ時代である。
関東大震災は大正12年(1923年)で茂久二が16歳の時である。
六高・東大時代
大正14年(1925年)、大正デモクラシーの成果ともいうべき普通選挙法が公布されたが反面、治安維持法も成立しており、社会主義勢力の成長と同時に政府による共産党分子への弾圧も強まり、また経済不況の慢性化、政党への不信、議会勢力の後退などが続いて昭和4年(1929年)の世界的経済大恐慌の発生に至る。

荒木茂久二はこのような不況のドン底に耐えて第六高等学校(岡山)と東京大学の時代を過した。
同時に文部省の学園に対する「思想善導」時代でもあった。

六高時代、荒木は剣道と英語のクラブ活動に加わり、特に英語に力を入れていた。

英国の女性小説家工ミリー・ブロンテの「嵐が丘」を愛読したのがこの頃であり、愛憎と復讐の悲劇に旧制高校時代の若き魂をおどらせたものと思われる。

学園時代の友人には次のような人達がいる。
寺岡正(寺岡医院長)、
米田一男(山陽国策パルプ)、
博田五六(電気通信大学長)、
片山隆之(片山組社長)、
梶谷鐶(がん研病院長)、

藤原節夫
(元衆議院議員)、
井上義海(元神戸製鋼所社長)

さらに東大から鉄道省へと一緒に進んだ人に植田純一、石井昭正などがいる。

鉄道省へ入り地方勤務
東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業した昭和7年(1932年)には、前年に始まった満州事変が上海に飛火し、さらに満州国建国宣言、五・一五事件(海軍青年将校らによる軍事政権樹立を目指すクーデターで時の首相犬養毅は首相官邸で射殺された)と続く。

荒木はこのような事件の続く中で鉄道省入りし、仙台鉄道局勤務となり、鉄道の第一線に立った。

新人を地方の第一線に配置するのは当時の鉄道省の慣例で、そこで機関庫にも勤務し、「機関手見習」となっている。
また仙台鉄道局主任荒木はこの地で家庭を持ち秦寿子(夫人)と昭和9年(1934年)11月結婚、長女公子は仙台生まれである。
同年賞勲局から賜金55円を受けているが「昭和6年〜9年の功」による。
これは満州事変から上海事変にかけて「非常時」の繁忙手当で、現業公務員に支給されたものとみられる。

昭和11年には二・二六事件が起った。
陸軍皇道派青年将校による国家改造を目指すクーデターで、永田町一帯を占拠、内大臣斉藤実(前首相)、蔵相高橋是清らを射殺、3日後に「反乱軍」は鎮圧された。

やがて昭和15年(1940年)には美濃部達吉(貴族院議員・東大名誉教授)の天皇機関説が国会で攻撃され軍部、ファシズムの勢力が一段と増大していった。
この間支那事変(日中戦争)は一層拡大し同時に泥沼化していった。
国家総動員体制が強化されるとともに対外的にはヒトラー、ムッソリーニと結んで日独伊三国軍事同盟へと進んだ。

内閣企画院・法制局勤務へ
それまで地方勤務を続けていた荒木は昭和14年(1939年)鉄道省大臣官房文書課を経て内閣の企画院調査官兼法制局参事官に任じられ、その後6年余、鉄道省から出向の「法制局参事官」であった。

この間対米英戦争が始まり、緒戦の大勝利にもかかわらずやがて4年足らずのうちに日本軍の惨敗、日本帝国の崩壊、降伏に至るまで荒木法制局参事官は、若き官僚のエースとして内閣の指導部で勤務を続けた。

開戦から降伏まで波瀾万丈の大日本帝国の浮沈をかけた大戦争をその中枢でつぶさに体験したのである。
昭和20年(1945年)に入っては米空軍のB29戦略爆撃機による東京大空襲が繰返され、東京が見る見るうちに焼野原となってゆくのを目の前にして荒木は何を考えたであろうか---家族は郷里福山に疎開しており、住居の東玉川の自宅は戦災をまぬがれた。

なお戦争が激しくなってからは思いも及ばぬことながら法制局時代の想い出として次のようによく話していたという。

「法制局が長かったので古巣の鉄道省にはもう戻れないかと思った。
それならそれで法制局長官を目指そうか---長官ともなれば新内閣が出来ると、なみいる大臣と並んで、最後に法制局長官の名前が出る。
親孝行にもなる・・・・・・」


参考
評論家で産経新聞社長もやった稲葉秀三は本書に寄稿しているが荒木と同年で昭和12年(1937年)企画院嘱託となり昭和16年(1941年)には和田博雄(---戦後吉田内閣農相、後に左派社会党書記長など)らと治安維持法違反でいわゆる「企画院事件」に連座した。
戦後昭和45年(1970年)無罪。

運輸省の最高幹部へ

戦時中の内閣法制局参事官から荒木は昭和20年(1945年)8月終戦後間もなく運輸省鉄道総局に戻り、昭和20年(1945年)10月、原爆被害の生々しい広島鉄道局総務部長、次いで、昭和21年(1946年)3月東京鉄道局総務部長に転じ激しい労働攻勢に対応しながら首都圏を中心とする国鉄再建に挺身した。

やがて昭和24年(1949年)から昭和33年(1958年)にかけて約10年間大臣官房長、鉄道監督局長、航空局長、事務次官と運輸省の中枢を進み、占領中から講和条約発効後にかけ、運輸行政の最高幹部として難局に当った。

昭和24年(1949年)6月運輸省大臣官房長(大臣大屋晋三)に就任直後、下山、三鷹、松川の三大公安事件が続発している。
下山定則国鉄総裁は鉄道省、国鉄時代以来の直接の上司であり、吉田内閣が進めていた国鉄職員大量整理の最中に常磐線上で轢死体となり発見され、自殺とも他殺とも知れない怪死であった。
そのため運輸省の責任者の一人として随分、公私ともども荒木官房長の悩みは深かったと思われる。
しかもそればかりか三鷹駅構内の無人電車の暴走、東北線松川駅付近で列車の脱線転覆と続き、ともに共産党員のかかわりがいわれ、裁判で否定される奇妙な事件が国鉄を舞台に起ったわけで、当時の苦悩ぶりがしのばれる。

下山事件については当時、親しい関係者は誰もが自殺するはずはないと見ており、荒木官房長も、その一人であった。

また官房長時代、秋山龍事務次官が米国その他外国出張中には代理をつとめた。
自らも昭和25年(1950年)ガリオア資金によって米国へ出張した。
ニューヨーク滞在中に朝鮮戦争が起こっており、初期の米韓軍の敗退には肝を冷したことであろう。

初代航空局長に就任したのが平和条約発効、独立の年昭和27年(1952年)であり、民問航空の再開に向けて献身、今日の大発展の基礎を築いた。

国際民間航空機構(ICAO=国連の下部機構)への加入、日本航空株式会社法の制定、諸外国との航空協定締結、さらに航空管制業務(ATC)の自主運用等事務次官時代にかけ数々の業績を残した。

昭和海運時代(退官後)

昭和36年(1961年)1月、日本油槽船株式会社取締役社長に就任し、昭和45年(1970年)3月昭和海運株式会社社長を退任するまでの9年余、終始海運業界発展のために尽力した。

昭和38年(1963年)多年に亘る海運不況を克服するため、海運企業の再編成が計画されるや、日本油槽船社長としてこの計画に賛同し、不定期船部門の名門会社であった日産汽船会社との合併に卒先奔走した。
翌昭和39年(1964年)4月、合併が成り昭和海運株式会社を設立して同社社長となった。
海運業の技術革新、構造的変化に即応して各種大型専用船の建造を推進し、企業基盤の充実・経営の合理化と効率化を断行し、国際競争力の強化に努め、カルフォルニア航路の定期航路開設、インド、パキスタン航路の航権拡張など同社は国際的総合オペレーターに数えられるまでに成長した。
また、照国海運、日邦汽船等数社を系列会社におさめ、昭和海運グループとして、わが国六中核体の一を構成して日本海運界の戦後の復興に貢献した。
前後10年にわたる荒木の海運事業時代は民間会社の責任者として最も苦労した時でもあった。
なおこの間に他の海運会社の役員や全日空の相談役、日本空港ビル・三愛石油の取締役など関係会社は極めて多彩であった。


帝都高速度交通営団総裁へ
昭和45年(1970年)4月1日、帝都高速度交通営団総裁に就任、以来8年余、首都圏における交通網の整備拡充とその運営に尽力した。

地下鉄新線の建設は、昭和26年(1951年)4月、丸ノ内線建設に着工以来、鋭意続けられ、日比谷線、東西線も開通されていたが、総裁として昭和47年(1972年)10月には千代田線(綾瀬−代々木公園間)20.9キロの開通、更に昭和49年(1974年)10月には有楽町線(池袋−銀座1丁目間)の10.2キロの開通を行うなど、戦前からの地下鉄銀座線を含め在任中の営業キロ123.9キロ、1日の旅客輸送人員410万人と、首都圏における交通の大動脈へと発展させた。

また、11号線の建設に鋭意努力するとともに、建設に要する莫大な資金の調達はもとより建設工事に際し、幾多の新しい技術をとり入れた営団独自の施工法を採用し、公道下の工事とこれに伴う路面交通の安全確保、工事に際しての騒音防止、林立する高層建築物、河川、軟弱地盤下の工事等々、土木工事にあっても極めて社会的影響の大きい地下鉄工事の災害防止に多大な配慮を払った。
これは総裁就任直後、大阪の地下鉄工事現場で爆発事故が起きたため営団の工事の安全再点検を徹底し、職員はもとより工事請負業者に注意を喚起し、大都市での地下鉄工事に新機軸を開いたものである。

地下鉄総裁に再任された翌年---昭和51年(1976年)にロッキード事件が表面化した。
全日空の機種選定にからむ事件だけに荒木にとって他人事ではなかった。
しかも全日空相談役として6年間在任し、昭和45年(1970年)には辞任しているものの、長く目をかけてきた後輩の若狭得治(当時社長)、澤雄次(当時専務)が刑事被告人として関係していただけにショックを受けたものと思われる。
澤の裁判では弁護人側の証人に立った。

総裁在任中の昭和52年(1977年)満70歳を迎え勲一等瑞宝章を授章した。

なお荒木総裁の後任は山田明吉、薗村泰彦、中村四郎と続き、現在の永光洋一は初代総裁原邦造から数えて9代目である。


晩年の活動
昭和53年(1978年)7月帝都高速度交通営団総裁を退任後は同営団の顧問として、また株式会社地下鉄ビルディング取締役会長〔昭和63年(1988年)以降同取締役〕として地下鉄関連事業の育成発展に努力するなど、一貫して、運輸交通界の発展のため尽力する一方、広く交通人の育成に尽し、それらの人々はそれぞれ枢要の役割を果たしている。
また、経済企画庁国土総合開発審議会、通産省石油審議会、内閣交通基本問題調査会、運輸省輸出会議、運輸政策審議会、鉄道建設審議会等の各種審議会委員として活動した。
特にわが国の交通、国鉄の新線建設計画に関する基本方策を策定する鉄道建設審議会委員、同小委員会委員として幹線、地方線を含めた大計画に参画した。
一方、民間諸団体にあっては、同業の民営鉄道協会理事のほかわが国の経済界をリードする日経連、経団連、日本商工会議所の理事又は委員、更に数十に及ぶ各界にわたる諸団体の役職を嘱望されてその任を果たした。

昭和54年(1979年)には社団法人日本観光協会会長を委嘱され、同会の財政再建と事業の活性化に当った。
5年後は名誉会長。


がんと闘いつつ・・・
最晩年は主治医によれば、がんとの闘いの5年間であった。
本人は必ずしも意識していたわけではなく、昭和62年(1987年)日本交通文化協会、日本航空協会、日本交通協会と3つの協会の会長に就任しており、航空協会の会長には荘田泰蔵(故人)、柳田誠二郎、岡崎嘉平太(故人)など高齢な前任者が当時まだそろって元気だったので、これらの人にあやかって「長生き」をしたいと話している。

日本航空協会は大正のはじめ帝国飛行協会として創立され初代会長は明治の元勲、当時の首相大隈重信である。
そのあと阪谷芳郎、田辺治通、井坂孝と続きその間、久邇宮邦彦王、梨本宮守正王を総裁にいただき近衛文麿、東条英機の戦時の首相が名誉会長となっている。
戦後は日本航空協会として再発足し会長には郷古潔、荘田、柳田、岡崎と続きその後、戦後5代目の会長に荒木は就任した。
結局在任5年で死去したが、その後任は運輸省時代の先輩、秋山龍が引継いだ。

日本交通協会は航空協会よりも前身は遥かに古く、明治31年(1898年)に帝国鉄道協会として生れている。
会長には川上操六、児玉源太郎、寺内正毅、大隈重信など日清・日露戦争時代の将軍や明治の元勲が名をつらね、戦後は十河信二・平山孝などの名が見える。
荒木は明治以来19代目の藤井松太郎の後任として20代目の会長だった。
現会長は副会長だった中村卓が就任した。

荒木の晩年の会長職として日本交通文化協会(NKB)会長を見落すことは出来ない。
日本交通文化協会は戦後昭和23年(1948年)設立された任意の交通クラブから発展した財団法人である。
創始者瀧冨士太郎の「日本経済は鉄道を中心に動き市や町は鉄道とともに発展する」という戦前からの考え方を源流とするもので、子息瀧久雄によって受けつがれ交通と文化の発展を希求するメディアを中心とする事業体である。
同協会は、「バブリック・スペース」「国鉄有情一一五年」などの出版、鉄道を中心とした陸運従業員の総合文化展などの記念事業も行っている。

平成3年(1991年)6月荒木茂久二は83年にわたる波潤に満ちた生涯を閉じた。
明治、大正、昭和、平成と4代を生き続けたが官僚の中の優等生ともいうべき人生であった。

昭和天皇の大葬、明仁天皇の即位の大礼などには病を押して厳粛に列席し国士−荒木の面目を示している。

運輸関係の汚職、疑獄など数々の事件は決して少くないが、荒木は終始、何の汚点にも染まらず最後は陸海空運輸業界の大長老として瞑目できたことは恵まれた家庭とともに、まことに幸せな一生であったというべきであろう。
   (出典1)


誠之館所蔵品
管理 編 著 名 称 制作/発行 日 付
03007 追想録荒木茂久二刊行会 編 『追想録 荒木茂久二』 追想録荒木茂久二刊行会 平成4年(1992年)


出典1:『追想録 荒木茂久二』、追想録荒木茂久二刊行会編刊、平成4年(1992年)6月25日
出典2:『昭和30年度校務日誌』、福山誠之館高等学校、昭和30年
2005年5月10日更新:経歴・本文・出典●2006年5月15日更新:タイトル・連絡先削除●2007年3月6日更新:所蔵品●2007年3月28日更新:レイアウト・所蔵品●2007年4月5日更新:経歴●2007年9月6日更新:経歴・誠之館所蔵品・出典●2008年2月14日更新:本文●2009年8月13日更新:誠之館所蔵品●2010年4月14日更新:本文●