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福山阿部家当主(第11代)、伯爵 | |||||||||
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経 歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
生:明治24年(1891年)1月9日、東京生まれ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:昭和41年(1966年)1月1日、享年75歳、谷中霊園・阿部正桓墓域内に葬る | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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生い立ちと学業、業績 |
映画と雲と子供へのロマン 気象学に貢献 阿部家先代の当主、正直は伯爵と呼ばれるのを好まず、「雲の研究家の阿部さん」と言われると上機嫌になる、雲の博士であった。 正直は、備後福山藩第10代藩主・阿部正桓の長男。 学習院から旧制八高を経て、東京帝大理学部物理学科を卒業、以来雲の研究一筋に打ち込んで、昭和41年(1966年)に、75歳で亡くなった。 「大正14年(1925年)のある日、……寺田(寅彦)先生に、自分の研究に関する希望を述べ、自然現象に映画を利用する研究方面に入りたい旨を切り出すと、寺田先生が、それなら雲を撮影して研究したらよい、またそれには立体撮影も必要だ、といわれた時、それが自分の望む方向であると痛感し、堅い決心がついたのである」(『つるし雲』、昭和44年11月刊) 映画と雲。 正直はこの二つを結びつけ、日本の気象学に大きな貢献を果たした。 帝大の恩師たちに「映画を研究に取り入れたい」と、相談したときの心境を、自著『つるし雲』で回想する。 「すでに私と映画とは切っても切れない間柄になっていたのである。雲にいどんで何十年というより、映画フィルムに憑かれて何十年といったほうが適当なのかもしれない。それほど映画撮影に夢中になっていたので、この経験を活かしたかったのである」 雲はさておき、正直と映画の出会いからたどってみたい。 明治31年(1998年)、正直が数え8歳のとき、初めて活動写真をみた。 父の阿部正桓に料亭「いしゅう楼」の貸席で開かれた、れいめい期の輸入映画発表会に連れていかれたのであった。 3つの部屋をぶち抜いて客席が作られ、正面に4メートル四方ほどの白い幕が張られていた。その中央、長方形に光線があたってキラキラ輝き、光のなかでは雨のような縦線を背景に何やら動いていた。 座敷に座った観客たちが固唾をのんで見つめる画面では、3人の西洋女性が長いスカートから足を上げて、カンカン踊りのようなダンスをしていた。 正直少年は、「動く画面」にどれほど心を奪われたことか。 初めの画面はびっくりして何が写っているのかわかるまで、しばらく時間がかかってしまったほどだった。 「そのつぎはスコットランドの女王が断頭台の露と消えていく写真で、気が落ち着いたせいか、写真が前のより鮮明であったのか、最初からよくわかった。 首切り役人3人が女王を目かくしして連れてきて処刑するのだが、これも3回繰り返される。 3度も首を切られるのだから、女王もたまらない。 フィルムが短尺なためで、笑いたくなるところだが、笑う人は一人もいず、みな真面目になって驚いて見ている。 いかにもほんとうらしい動きに驚かされているからである」 あっという間に終わってしまう画面だったが、それ以来、正直少年は活動写真に魅せられていった。 映画好きも父の感化 当時の活動写真に使われた写真は、現在のフィルム形式ではなく、正直の記憶では「最初は、5センチ角ぐらいのガラスの写真を何枚も蝶番でつないだ形式」であったという。 正直がひかれたのは、映画の内容というより、その構造と撮影であった。 「動く写真」に熱中して初等科時代を過ごした正直はその間、撮影器械を作りたいと実験、綴本型シネマ、本の型をした撮影機を作ったこともあった。 やがて、神田の春翠堂写真店から売り出した「キネオカメラ」という純国産の撮影機を手に入れて、映画撮影熱はいっそう高じていった。 これは、撮影、焼付、映写を兼ねた「家庭用」として売られたものである。 いまなら手頃の価格で、ビデオ・カメラを楽しめるが、大名華族の跡継ぎの少年ならではの、当時としては破格の趣味であった。 父の正桓は写真が好きで、華族たちの同好会で活躍し、機関誌『華影』に素人離れのした作品を多く残している。 その感化もあった。 学生時代に、すでに「キネオカメラ」で山の雲を撮影し、 「当時から知らず識らず雲に憑かれていたのかもしれない」 と回想した。 大正12年(1923年)には直子夫人とともに1年間、ヨーロッパを回ったが、この時に雲の研究に必要な機器を購入し、帰国後、御殿場に阿部雲気流研究所を設立、東京・西片町の本邸内にも実験室を作った。 自ら観測のための撮影機や実験装置・器具を考案作成し、地形日照儀など、特許を取ったものもある。 昭和12年(1937年)に御殿場の観測所が中央気象台委託観測所となって気象観測嘱託となる。 昭和16年(1941年)に理学博士となり、昭和19年(1944年)に運輸大臣賞、昭和20年(1945年)5月には帝国学士院から鹿島萩麿賞が贈られた。 戦後間もない昭和21年(1946年)に中央気象台研究部長、翌年に気象研究所長となって昭和24年(1949年)に退官した。 各地の野外観測へも出掛け、「そういう場合のあまり快適とは思えない生活を少しもいやがらず、むしろ観測員とのわけへだてのない共同生活をかえって喜んでおられるよう」(畠山久尚「日本気象学会機関誌『天気』」)だったという。 富士山の雲の研究 正直の研究は、写真と映画の手法を駆使し雲が変化する状況を観測、とくに富士山上空の雲について研究を重ねた。 その結果 「いわゆる吊し雲は富士山体の障害で生じた気流の渦巻のまきあがる部分に生じた雲だと確証」(『天気』) したのをはじめ、大きな成果を挙げた。 昭和41年(1966年)に起きたBOAC機が富士山の乱気流に巻き込まれて墜落した事故では、正直が残した厖大な資料が、事故原因解明のために使われた。 中央気象台(現・気象庁)を退官後は研究からも遠ざかった。 「戦後の混乱は大きく、やむをえないことではあったが、生活問題と取り組むのが精一杯であり、雲の研究を継続することなど思いもよらないことであった」 と、正直は自著に書いた。 華族制度の廃止、農地解放などの大変革の波が、正直の研究にも大きな影響をもたらしたのであった。 雲の観測と映画を結びつけるという、斬新な発想の実現は、当時の気象行政からは難しい。 私費をふんだんに投じて、研究に没頭した正直の功績は、そうした時代にあっては、いっそう大きいものであったろう。 正直が晩年にまとめた『つるし雲』は、師の寺田寅彦が物理学者でありながら、夏目漱石門下の文人であった影響だろう、洒脱なわかりやすい文体で、雲の話が書かれている。 少し長くなるが、その一節を紹介しよう。 「大空における空気の流れを想像してみよう。そこにはおもに地形によって生ずる激しい渦の流れや、波を描いて進む川のような流れもあろう。山麓に打ち寄せては返す怒濤、断崖から落下する瀑布、あるいは泉のごとく湧き出す流れもあろう。 時には独楽のように回転したり細紐がうねっているような流れもあって、その光景は恐ろしい感じさえするに違いない。 しかし、場合によっては、非常におだやかな空気の流れもあると思われる。眼には見えない大小さまざまの空気の玉(水蒸気を含んだ暑い空気の玉で、熱気泡と呼ぶ)が、ぽかりぽかりとゆっくり空高く昇っていって雲となる場合がある。 可愛らしい小人がシャボン玉に乗って飛んでいる童話の世界を想像するような、静かなよい天気の日がそれを想像させるのである。 ……眼には見えないような空気の流れが、大空にいろいろの雲形を現すことになる……:つまり雲は眼に見えない空気の状態を暗示する道しるべであり、奇術でいえば雲は結果としての『演出』であり、大空の空気の流れは『たね』『仕掛け』に当たるのである」。 一見、同じ場所に止まって、さまざまに形を変えていると見える雲の塊りが、じつは次々にその空間を通過する水滴が入り替わっているものであり、それは「流れ去るフィルムが一瞬映写幕を通る時だけつぎつぎに姿を現すものだが、眺めるわれわれはあたかも画面に写っているもの」と思ってしまう映画の原理と同じだと、正直は述べる。 近年、ようやくUFOの研究が盛んになって、「市民権」が認められつつあるが、正直は「空飛ぶ円盤が他の天体から飛来するという説も、否定する根拠はなにものもない」と関心を寄せていた。 物理学者としての人生をまっとうした正直だが、長年の研究生活の根底にあったのは自然を愛し、探求するロマンであった。 そうした正直を、その長男阿部正道が語る。 「父は、雲を見ている時がいちばん良かったのでしよう。 人事関係のことは嫌いで、人の名前はすぐ忘れますし、政治も実業も好きでありませんでした。 雲と子供が大好きで、晩年(昭和30年、1955年)には阿部幼稚園(現・西片幼稚園)を開きました。 名前の通り『正直』な学者肌の人でした」。 (出典1)〜(出典2) |
誠之館所蔵品 | ||||
管理 | 氏 名 | 名 称 | 発行所 | 日 付 |
05533 | 阿部正直 著 | 『つるし雲』 | (株)ダイヤモンドグループ | 昭和44年 |
◎ | ◎ | ◎ | ◎ | ◎ |
07271 | 福山城博物館 編 | 『福山阿部家展−受け継がれた武家資料−』 | 福山城博物館 | 平成27年 |
07431 | 西野嘉章 編 | 『雲の伯爵−富士山と向き合う阿部正直』(フランス語) | 東京大学総合研究博物館(UMUT) | 平成27年 |
出典1:『日本の肖像第五巻』、45頁、毎日新聞社刊、1989年11月30日 出典2:『誠之舎−戦争と占領下の一学生寮の記録−』、文集『誠之舎』編集委員会編、誠之舎潺潺会刊、昭和60年6月28日 出典3:『つるし雲』、阿部正直著、(株)ダイヤモンドグループ刊、昭和60年6月28日 |
関連情報1:『ニコピン先生葛原しげる追悼録』、12頁、「冬の赤城山で一夜を過した思い出」、阿部正直、葛原先生童謡碑建設委員会編刊、昭和39年3月29日 |
2005年1月21日更新:経歴●2005年3月3日更新:肩書●2006年6月1日更新:タイトル●2007年9月27日更新:経歴●2007年10月5日更新:関連情報●2007年11月19日更新:経歴・本文・関連情報抹消●2008年1月23日更新:本文●2009年7月7日更新:関連情報●2009年9月3日更新:経歴・本文●2009年11月13日更新:誠之館所蔵品●2009年11月16日更新:経歴・出典●2010年2月2日更新:本文●2015年12月2日更新:レイアウト・誠之館所蔵品●2017年1月4日更新:誠之館所蔵品● |